田畑さんのマンション近くのビルのガラスに映った自分の姿が、以前より少し痩せて見えた。その瞬間、思わずセルフィーを撮っていた。単純に、嬉しかったのだと思う。

前回よりはいくらか記憶が残っている気がするものの、それでも初期の頃と比べると、明らかに記憶の密度は薄い。けれども、その希薄さと引き換えに、自分の身体により深く委ねているような感覚がある。この文章を書きながら、「ああ、私は少しずつ自分の身体に任せられるようになってきているのかもしれない」と気づき、そのことに小さな喜びを感じている。

これまで私は、自分の身体との関係性があまり良いとは言えなかった。むしろ、どこかで拒絶し、時に憎しみすら抱いていたと思う(それは今も完全には消えていないかもしれない)。だからこそ、その関係がわずかでも緩んできているのだとしたら、それは私にとって確かな変化として受け取れる。

ゲシュタルトの場では、主に言葉を通じて自己と向き合ってきた感覚がある。ただ、思考を介することで、触れたくない領域を巧妙に回避してしまうことも少なくない。その点、田畑さんのロルフィングは、過度な圧や誘導を感じることなく、安心感の中で自然に自分自身と出会っていくプロセスのように感じられる。意図的に向き合おうとしなくても、気づけば触れている、そんな質の体験がそこにある。

第1回目と比べると、田畑さんの位置関係や働きかけに対して、自分の身体感覚をもとに応答することが、以前よりも難しくなくなってきているように思う。「こちらのほうがいい」といった具体的なフィードバックを、比較的明確に伝えられている感覚がある。

また、自分が行っているゲシュタルトのセッションにも、変化が現れている気がする。簡単に言えば、田畑さんの在り方をどこかで模倣し始めている。意識的というよりは、自然と影響を受けているのだと思う。これまでの自分の関わり方は、やや過介入的だったのではないかという反省も浮かび、その背景にあった動機について考えることもある。ただ、その詳細については、ここではあえて言語化しないでおく。

身体と心の変化として感じているのは、「静かであること」への志向である。以前は何かが起こるとすぐに誰かに話したくなっていたし、その衝動は今も残っている。しかし最近は、それらをすぐに外に出すのではなく、自分の内側でしばらく保ち、熟成させていたいと思うようになっている。

そしてもうひとつ、自分の人生に対して、以前よりも真剣に向き合おうとしている感覚がある。どこかで扱いにくいと感じていたこの身体とともに、これからも生きていくしかないのだとすれば、他者に委ねるのではなく、自分の力で生きていこうとする意志が、静かに立ち上がってきているのかもしれない。

一方で、やはり写真を撮られることには独特の違和感がある。どうしてこんなにも落ち着かないのだろう、と改めて考えた。おそらく、カメラを向けられると、「見られている」「評価されている」という感覚が立ち上がるのだと思う。普段は忘れていられても、意識に浮上すると、その感覚から完全に自由ではいられない。

たぶん私は、長いあいだ社会からジャッジされることを恐れていて、その視線をカメラのレンズへ投影しているのだと思う。

そして今、この文章を書きながら、さらに気づいたことがある。写真を撮られる瞬間、私はいつも「外見」のことばかり考えている。本来なら、その場で起きている感覚や気分を感じ、そのまま存在していればいいはずなのに、「ちゃんと写っているだろうか」「ブスに見えていないだろうか」とばかり気にしている。つまり、カメラを向けられた瞬間、私はその場からいなくなってしまっている。

さて、施術が始まる。

今回は、うつ伏せで首を左に向けるバージョンと右に向けるバージョン、その後に仰向け、さらに膝を立て、両手を天井方向へ上げた姿勢を一定時間保つ、という流れだった。

印象的だったのは、そのポジションへ入っていくまでの田畑さんのガイドの繊細さだった。身体を無理に「形」に合わせる感じではなく、導かれるまま委ねていると、自然とちょうど良い場所へ収まっていく。すると、自分では力を入れていないつもりなのに、腕がその位置に静かに存在し続けている。それは私にとってかなり不思議な体験だった。

もしかすると、「委ねる」ということが、以前より少しずつできるようになってきているのかもしれない。……まあ、わからないけれど。

途中、脇の下に触れられた時、ものすごくくすぐったかった。

田畑さんと話していると、毎回なにかしら新しい発見がある。なのに、その場では確かに掴んだはずのものを、あとになると驚くほど忘れてしまう。それが少しもったいなくもあり、同時に、このプロセスらしい気もしている。