行きの電車で、宇多田ヒカルなど、日本の音楽を聴きながら千代田線を待つ。ホームの向かいに座っていた男性の存在が、なぜか強く印象に残った。整った容貌というだけでなく、口元、とりわけ私から見て右側にわずかな緊張が見て取れた。その噛みしめるような表情に、どこか色気を感じる自分がいる。同時に、その緊張を崩したくなるような衝動が、ある種のサディスティックな傾向、あるいは父親像への複雑な感情の投影が立ち上がることにも気づいている。
開始まで少し時間があったため、近くのジューススタンドに入る。そこでのやり取りに、軽い苛立ちを覚えた。持ち帰り用カップで店内利用を希望した際、店員の応対は一貫せず、判断が宙吊りにされたような状態が続いた。些細な出来事ではあるけれど、その曖昧さが神経に触れたのだと思う。
まず、今回のセッションがとても強い印象をでした。
いつも通りの写真撮影から始まるが、このプロセスに対する感情はすでにほとんど中性化している。
施術は仰向けから始まる。横たわった直後から、身体が重力に明確に引き込まれていく感覚があった。その中で、特定の女友達のイメージが浮かび、やがて「女性一般」に対する苛立ちへと広がっていく。とりわけ、いわゆる「ぶりっ子」とされる振る舞いに対する嫌悪が際立っていたのが、自分でも興味深い。同時に、その反応が、かつて自分がそう振る舞うことを抑えてきた感覚。ぶりっ子であることを許されなかった、あるいは自ら禁じてきた側面を彼女たちに投影しているのではないか、という可能性にも思い至る。
施術の途中、腹部周辺だっただろうか正確な部位は曖昧だが触れられている最中に、「誰かに自分を預けることができない」という感覚が不意に立ち上がる。それは身体的な意味でも、心理的な意味でも同時に作用していたように思う。その瞬間、軽い悲しみが込み上げ、自然に涙が出た。田畑さんから「できていますよ」と言葉をかけられたとき、奇妙な安堵と嬉しさがあった。
細部の記憶は曖昧だけれど、片脚ずつ伸ばすような動きがあったことは覚えている。その際にも何らかの気づきがあったはずだが、内容はうまく思い出せない。
呼吸の変化は特に印象的だった。これまでにないほど、呼吸が容易で、深く、抵抗なく行われる感覚がある。吸うときに、下腹部、いわゆる丹田と呼ばれる領域へ呼吸を「届ける」ようなイメージ、さらに仙骨がわずかに前傾する感覚を伴わせるよう、田畑さんから示唆を受けた。このイメージは、身体の内部構造を静かに組み替えていくような手応えがあった。
一連の「見守り」の時間が終わり、座る時間へと移る。ここで、自分がいわゆるパニック傾向を持っていることについて話した。私の場合、呼吸に意識を向けることが引き金になることがある。しかし今回、呼吸があまりにも自然に深まるため、逆に「パニックになるのではないか」という予期が立ち上がる。けれど実際には発作は起こらない。その結果、「起こるはずのものが起こらない」ことに対して、別の不安、いわばメタレベルのパニックが生じかけた。ただ、それも現実の発作には至らなかった。
田畑さんのコメントとして印象に残っているのは、「大腰筋から脚へ」というイメージ。大腰筋が動くことで内臓の動きにも良い影響があること、さらに階段の上り下りが楽になるという話もあった。実際、帰り道でその変化は体感された。
また、丹田と感じられる領域をそのまま下へ落とすようなイメージでしゃがむ練習をしたとき、身体の使い方に関する新たな手がかりを掴んだように感じた。
帰りの電車では、本来は明治神宮前で乗り換えるところを誤って渋谷で降りることになった。渋谷に降り立った瞬間、言葉にしにくい違和感があった。その感覚を辿ると、幼少期に父親に連れられて通っていた西野流呼吸法の記憶へとつながる。その施設が渋谷にあったため、この場所自体が無意識のうちに避けたい場所として残っているのだと気づいた。過去の経験が、今の身体感覚や情動に静かに影響し続けていることを、あらためて実感した。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。