セッション1

田畑さんのロルフィングは非常に繊細なタッチで、触っているか触らないか微妙な感じの時もあり、痛みとはほど遠かった。

それでいて、身体がとても楽になって、呼吸も深くなった。

(一回目は呼吸に焦点をあてた。)

 

ちょうど、数日前、整体を習っている友人が、痛いのはいいのだと整体の先生から教わっていると言って、

とても痛い施術をしてくれたばかりだったので、とても助かった。(その時の痛みは2週間も尾を引いた。)

 

はっきり言って、痛いのが効くという施術者は、田畑さんの効果的な施術を受けた後では、

なにかヒーリングをするのとは別の要求が隠されているのではないかと思ってしまった。

痛いと、肉体的だけでなく、精神的な苦痛もおこる。

もし、誰かが以前に整体というのではなく、DVなどの体験を受けていたとしたら、逆にその嫌な体験を思い起こさせてしまっていたのではないかとも思った。

物質的な力を、施術者という権威によって正当化するけれども、それが、相手とのヒエラルキーに立って、相手の身体や精神的な反応を一方的に無視するようであれば、なにか違うのではないか、、、。

 

こんな風に思えたのも、田畑さんが、施術をしながら、私の身体の反応をよく見ているのがわかるからである。

触っては一呼吸置いて、ある反応が起きるのを待ち、無理はせず、まるで私の身体と対話しているようで、そこでは、

対話と調和があり、ヒエラルキーや正当化のような無言の力関係を感じなかった。

 

また、反応を待ち、時間をおいてから、次のステップに進むという作業には、私自身も、自分の身体の反応の意味や

感覚を感じ取る時間を与えてくれる。自分が自分の身体と対話し、考え、感じる時間である。

 

特に貴重だと思ったのは、その部分で、とても痛い施術を一方的に、何も私の身体の反応を待たずに次々とされた場合、

自分で考え、感じるという作業が痛みのために麻痺して、凍り付いてしまい、なにか暴力めいた感じさえ受けてしまうからだ。

 

一時的に痛みを起こす施術でも、それが対話のうちであり、自分と施術者に、その反応について考える時間を与える場合は

違うと思う。自分は尊重されていると感じるし、痛みをある程度、解読できる。

身体の痛みが、ある精神的なストレスや、抑圧し、忘れていたストレスを思い出すきっかけとなってくれることがある。

心と体は繋がっているのだ。

 

何が問題で、何を自分は手放さなければならないのか、、、。

何が痛みを引き起こしているのか。

その鍵を、たとえ痛みであっても、反応を味わう時間を与えられていることで考え、施術者との信頼関係のうちに、

良い方向にかえることができたりもする。

 

自分の身体を通して、自分自身を知ることはとても大切なことだと思う。

自分は最終的には自分でしか変えられないのだから。

 

第一回目は呼吸についてだったが、自分がいかに今まで身体を緊張させて、浅い呼吸でいたのか、施術を受けたあとの状態と

比較して痛感した。

そして、深い呼吸ができるようになった自分でいると、いかに精神的にも安定して、リラックスして世界に向き合えるように

なるのか気づいた。

すると、人や世界に対する見方や感じ方が変わる。

驚きの瞬間だ。

 

だが、いつもの日常生活に戻ると、この新しい私、深い呼吸で、堂々と話し、自分に自信と誇りを漲らせて話す私に人々はどう

反応するのかと不安になりだす。

いつもの、弱弱しく、頼りなさそうに話す、ある意味、”扱いやすい”人から、自分の思っていることを堂々と言う私を

周囲の人々は受け入れるだろうか、、という疑念が頭をもたげだす。

逆に言うと、呼吸が深くなり、落ち着いて、胸も張って、身体の重心も良い位置に変わるということが、どれだけ、自分を尊重し、

自分を愛し、ありのままの自分でいて、人の言いなりではなく、自分の意見をはっきりと言いたいと思わせるまでに

自分の生きるあり方を変えてしまうということは驚くべきことだった。

自分が深い呼吸で、深い声で話したとき、長年抑圧されてきた素直な自分でいたいという欲求が現れたり、

自分のもっと自然な姿のありようや美しさや心地よさに自分自身で感動し始めた。

そして、いったん気づくと、もう後戻りしたくないという気持でいっぱいになった。

 

過去の自分との闘いによって、第一回目の施術の成果も変わってくる。

その成果をどのくらい維持したいかは、自分の過去の人間関係や生活をどのように変え、あるいは抜け出したいかということでもあった。

私の場合、特殊な事情により、第一回目の施術と、二回目との間が空いたので、闘いと、表現してしまうほど、いろいろな観察ができたのだろうと思う。

身体の在り方が変わると、気持ちの持ちようや自分の自尊心まで変わる。本当の自分が素直に表現されるような環境、人間関係、生き方まで求めたいという強い欲求にまで高まる。これに気づいたのは驚きだった。

セッション2

 

ロルフィングの第二回目は、不思議なことに、自分を皮膚で囲まれた肉体という気がしなかった。

量子の集まりで、エネルギーの磁場のような感覚。

その感覚を常に感じていた。

あまりにも、不思議で、なぜ、そのような感覚が自分に訪れたのかはわからない。

その為に、肉体を持った自我という観念も変容をきたしつつあった。

その不思議な感覚を味わっているうちに、なぜ、人は、あるいは自分は過去にとらわれ、過去によって

自分を定義し、あるいは社会的役割などによって、自分はこうだと思うのだろうという疑問が湧いてきた。

私が今、感じているのは、ただの量子のあつまりである。そして、瞬間、瞬間、その量子が引きあい、磁場をつくっているような感じ。

そこには、自分がこうだとか思って定義し、区切ったり、過去について、あれこれ判断し、価値づけしている自分とは違うものである。

この純粋なエネルギーの磁場にある、自由、解放感、そして瞬間に完全にあり、完全に生きるということを味わってみる。

あらゆる価値判断をいったんやめてみる。

なぜ、自分は今までいろんなことにとらわれていたのだろう。私にはもっと自由があるのだ、その瞬間、瞬間、新しい選択をできるのだ。

そんな思いが溢れ出てきた。

そして、セッションの最後には、息をすることが、まるで宇宙の一部であり、宇宙の循環の一つであるような気がした。

なにか、自分と宇宙の大きなつながりを感じたのだ。地球と調和し、宇宙と調和し、調和の中で循環している。

息をすることが、こんなに味わい分かかったのかと思った。

 

このような不思議な体験に驚いていたが、セッションが終わって、日常生活に浸るどっぷりの毎日がくると、感覚は少しづつ薄れてしまう。

 

ピアノの先生に、重心を低くして、もっとたっぷり深く息をして、腕や身体の重さを感じて、腕を引き上げないで、腕の重さで弾きなさいと言われた。

セッションの中で感じた肉体の重さや息の深さが、なかなか日常生活では再現できない。

でも、少なくとも、感じたことがあるというのは救いだ。

ロルフィングを受ける前はピアノの先生が言っていることが、全くつかめなかったからだ。

どうしたら、セッションで感じたことを維持できるのだろうか、と思った。

セッション3

私は足の怪我で、何か月もサポーターをしたり、インソールを入れたりしていたために、

それらを外すと、今度は歩き方に癖が出来てしまい、別なところに痛みがでていた。

 

それで、今回は、その痛みがあると、田畑さんに伝えたのと、首と背中に痛みがあることも伝えた。

 

首と背中に痛みがあるのだから、原因はそこだと思い込んでいたが、田畑さんが腕や指を施術すると、

急に痛みが緩和した。

考えてみれば、腕も、ぶら下がっているわけだし、腕の位置や緊張や疲労によって、

背中に痛みが生じたりしてもおかしくないなあと改めて思った。

 

ロルフィングの施術を受けると、だんだん、身体を一つの有機体のように思えてきて、今まで身体を一つ一つの

部位に応じて、ばらばらに考えていたものが、思考の中でも統合されてくる。

自分の身体に関する感じ方や考え方が少しずつ修正されていく。

今は、とても長い道のりのように感じるが、少しずつでも、進んでいるという感覚を大切にしていきたいと思う。

 

ロルフィングは、触っているような、触れていないような感覚で、それで変化が起こるのだから、施術を受けている

私としてはとても不思議だ。一体、何がおこっているのかは、理解ができないのだが、変化している自分を発見する。

それは、自分の、肉体に関する感じ方や捉え方が、まだ偏っていて、硬直しているせいだろう。

自分の意識が捉えている以上の、もっと多くのことを本来、肉体は感じているのだということだ。だからこそ変化する。

 

こう思うと、今までやった整体とか、つぼを押す小道具などを買ったりしたことは、なにか目に見える形で、押しているとか、

押されているとか、そう確かめることで良くなるだろうと推測し、安心感を得ようとしていたのかもしれない。

どちらかというと、頭でなにかの感情を引き出そうとしていたことが多かったかもしれない。

身体に感じさせないで、どちらかというと、ちまたの「これは効く」という情報を頼りに、その情報どおりやったのだから、

効くはずだという、頭で答えを引き出していたように思う。

 

頭でっかちになり、身体の微妙な反応を感じることを忘れていたために、ロルフィングの、触るか触らないかよくわからないタッチで、

こうも身体に変化が起きることに衝撃を受けた。もっと、自分のいろいろな感覚に根差して、生きることができるのだなと思った。

 

田畑さんは、毎回,ゆだねるということを身体に教えてくれる。でも、ロルフィングが終わって、次の日になり、日常生活に追われると、

また前の癖に戻り、ゆだねるという感覚を忘れてしまっている。これが、どうにかして身につくといいなと思う。

いつも施術の直後で、ゆだねることを感じると、すごく精神的に落ち着いている。

これが、いつもできると、きっと、もっと精神的にゆとりをもって生活できるのだろうと思う。

セッション4

 

今回は、骨盤や骨盤底筋などだった。

セッションを受けた後の写真を見たら、背がのびていた。

いろいろ、身体の変化があったせいか、数日間の間は疲れが出た。

でも、数日たつと、今まで、なかなか習得できなかった「ゆだねる」という感覚が、

ずっと楽にできるようになった。

例えば、立っていても、地面にゆだねているという感覚を味わえるようになってきた。

立つということも、「味わえる」のだという、なにか、もっと慈しみもあって深い気持ちなのだということが

だんだんわかってきて、感動した。

 

ゆだねることができるというのは、安心感があることでもあり、また地面からの愛も感じることである。

自分を受け止めてもらっているという感覚。

 

普段は、旅行で大自然の中にでも行かない限り、滅多に感じないことが、

なぜか、普段の生活で少しずつではあるが、感じられるようになってきている。

車や満員電車や高層ビルに囲まれた地域であっても、ただ立つことに味わい始めれば、そのような風景は消えて、

ただ地球からの愛を感じる。

そして、いつのまにか、有難うといっている自分がある。

 

身体をつきつめていくと、実は大きな愛や、感謝の気持ちにたどりつくのだと気づき、なんだか不思議な気持ちだ。

自分が、今までよりもっと、精神的に落ち着いて、豊かに生活できるようになった気がする。

セッション5

いつも驚かされるのが、身体のある場所を施術してもらっているときに、身体の違う場所に反応が出ることだ。

そして思いもがけない反応が、自分のこれまでの生き方を振り返り、考えさせる結果を導くこともある。

今回は、骨盤を施術しているときに、喉が反応して、声を出したら、普段と違う声になっていた。

身体の深くから出ているような声で、声帯の使い方も素直な感じだった。

逆に、その声で、自分の声帯の使い方が今までなにかおかしかったと感じたのだ。

今まで、自分を閉じ込めて、軽い話し方だったのが、なにか本能的な欲求が芽生え、本来の自分の話し声を

取り戻したいと訴えているかのようだった。

自分の本当のIdentityを取り戻したいというような、、、、。

上手く言えないけれども、とても本源的な欲求や、自己表現への欲求、自意識と自尊心の高まりが沸き上がってきた。

おなかのあたりに、今まで感情をため込んでいたのか、、、、。

その驚きは、感謝と喜びに変わっていった。

新しい、再生した自分を楽しみたいと思った。

施術の当日は、その後も数時間は、その声を維持していたと思う。

だが、休みに入ると、またもとの声に戻っていった。

 

今は、あの時の再生した自分の声を出そうと努力しない限り、なかなか出せない。

努力して出してみたところで、やっぱり、施術の時とは違うなという感じだ。

身体の動かし方で、なにか思い出さなくてはいけないことがあるんだけど、思い出せないというような、、、。

身体が思い出していないというか、、、。

次回を頑張ろうと思う。

セッション6

 

今回は施術中に、丹田が急に意識できるようになった。

なぜ、そうなったのかはよくわからないが、丹田を意識できるようになると、自分の内なる力強さを感じられたり、自尊の念が生まれてきた。

 

日本の武道などをやっている人は丹田に集中したり、気を込めたりするようだが、確かに、丹田に意識が向けられると、今までよりずっと集中できて、雑念が減り、気が澄んできて、自分の力がみなぎってくるように感じた。

 

もっと、生きていることに対して意識的であり、また自分で自分の瞬間、瞬間の生き様を選択しているように感じた。今までの、日常生活に忙しくて流されがちの自分とは違う自分が出てきた。

 

なぜ、どのようにロルフィングの施術が、丹田と関係したのかは自分ではわからない。

でも、結果として、意識できるようになり、その後の一週間は、自分の人生が実際においても少しずつ変化してきた。

そして、周りの期待や評価に振り回されずに、自分がどうありたいのかという、自分の内面からの声に傾け、自分を尊重する余裕が少しずつ出てきた。

 

自分を本当の意味で愛することに一歩近づいたように感じた。

セッション7

 

 

今回は顎など顔の部分を中心に、胸の丹田のところもやってもらった。

初めて、胸にも丹田と言われるポイントがあることを知った。

施術を通して、少し意識できるようになった。以前はいつも人の感情に引き摺られたり、人の気持ちを優先しすぎて、結果的に自分を見失って疲れてしまったり、空虚さが伴うことも多々あった。

だが、今は胸の丹田を感じていると、自分がどうしたいか、どう望んでいるかが段々わかり、人前でもおどおどしなくなったり、人の言いなりにならずに、自分の尊厳を守れるようになったと思う。そして、以前より、自分の気持ちを大切にして人に伝えたり表現したりして、その結果、自分が生きていることの意味や充実感が感じられるようになった。身体が変わると、気持ちの感じ方や、人とのあり方まで影響があるのだと思い、とても驚いた。

 

施術中の話に戻るが、胸の丹田が開くと、自己表現や自尊心や自己主張の気持ちが高まるのか、喉や顔の部分が、身体の内部から変わりたいと訴えているようで、今まで力が入り過ぎたり固まっていた部分が解放されたい身体が話しているように感じた。まさに、身体には、身体の内なる声があるという感じで不思議だった。施術中、身体が自発的に動こうとしていたり、望んでいるのを感じた。

セッション8

 

なにか、目のあたりが詰まっているように以前から感じていたのだが、足の施術をしてもらったときに、その滞りが消えた。

その時に、昔、ショッキングな出来事を見たりして、足がすくむ思いをしたことや、そのほか、思い出して精神的な苦痛を避けるために行動をさけていたことなどが、心の痛みを足に転移させていたことに気づいた。

そして、逆に、足の滞りがなくなったら、見ることで経験した心の苦痛が軽くなったという不思議な体験をした。考えてみたら、日本語は、かなり、どう人間が感情をため込みやすいかを表現する言葉がいくつもある。 ”足がすくむような思い”とか、”肩の荷がおりる”など、、、。実際に、身体がある感情を象徴的に表すことの可能性を示してもくれている。

そして、今回、足の施術を通じて、見ることのストレスが減り、以前よりももっと楽しんで風景を見たり、味わったりできるようになった。 人間は、不思議なもので、あるショッキングな経験をすると、また見るかも、また経験をするかもと、その不安にとらわれ、無意識的に行動が制限されたり、その苦痛な経験の思い出をひきずり、頭の反芻してしまうのだ。その結果、感情や感受性がだんだん平板になってしまう。 今回の施術では、足元がしっかりして、大地を味わえるもっとようになったことで、安心感が生まれ、自分がもう過去にとらわれずにしっかりと今を見つめ、今を味わい、楽しんで生きていけるのだという気持に変化したのだろうと思う。

以前のような、目のかすみや、目の疲れが減った。

精神的なものが、いかに身体に影響しているのかを目の当たりにして驚いた。

セッション9

 

9回目は、かなり足の部分をやり、身体全体と足との有機的なつながりが自分でもよく感じられるようになった。

そして、地面と繋がっている感覚や守られている感覚が強まった。

感想を書いているのは施術を受けた6日後だが、今でも、しっかりと歩いている感覚はある。

もっと、正確に言うと、この6日間の間にいろいろなことが起き、自分のやっていることに自信が持てるような出来事があって、

それとともに身体感覚が深まった感じだ。

うまく、精神的な状況と、肉体的な改善とが結びつき、両方で相乗効果をもたらしたのだろう。

思えば、最初の1回目を受けたときは、10回のコースとは随分多いと思ったものだが、途中では、今度は10回で足りるだろうかと

不安になり、でも今では、10回で自分でやっていこうというような勇気や明るい気持ちが生まれ、ちょうどいい回数だった気がする。

身体が解放されていくなかで、いろいろなトラウマや思い込みから解放され、それが、いろいろな生活の出来事に繋がり、自分の中に自信が生まれ、そしてさらなる自信を生み出す状況をもたらし、身体の解放をうまい具合に維持や強化する方向にいってくれたのだろう。

ストレートネックで、時々首の調子が悪くなるのだが、今までは他の問題が中心にあり、言ってこなかったので、最後の回で見てもらえればなと思う。

セッション10

 

今回は最後の10回目だった。

この10回目が、一番変化が大きかったと感じた。今回は骨盤にかなり働きかけた。

 

自分が気づかなかった幼少の頃のトラウマが蘇り、その時の風景が蘇り、そして消えていった。

自分でも、なぜそんな昔のことを思い出したのだろうと思うくらい不思議だった。 風景が浮かび上がったとき、それはもう過去の自分であり、今の大人の自分は、自分で自分を守ることもできるし、そのような暴力に遭うこともないのだとはっきりと言い聞かせたら、自分の身体に対する尊厳の感覚が芽生え始めた。 とても不思議な感じだった。 いつのまにか無意識のうちで、なにかいつも暴力にさらされているというか、自分の身体が自分のものではなく、他人の影響や支配を受け、侵害されるような感覚、自分の尊厳を失わされる場であるという感覚を、そのような環境から離れた今でも、無意識のうちにひきずっていたようだった。 そのおかげで、自分が自分の身体に違和感や拒否感覚があり、自分の心が上手く自分の身体に繋がっていないというか、自分の身体は、自分の心にとって安心な住処であるという感じがしていなかったようだった。

 

それが、骨盤に働きかけられたことで、浮かび上がり、今の自分と対峙することで、そうした古い思いを手放すことができた。 そして、自分の尊厳を自分の身体を通して知ること、自分の身体は魂の神聖な住まいであり、そのような意味で絶対的な美しさを持っているのだなと思った。

自分の身体を、純粋に、かけがえのない存在として美しいと思えた瞬間だった。

すると、自分の身体に充実感も覚え、ただ生きていて楽しいと心から思えた。

 

今は、この神聖な感情を大切にし、もっともっと育んでいきたいと思った。

 

シリーズ終了後半年経過

ロルフィングを受けて、月日が経ち、一番役に立ったと思われるのは、その考え方に接し、学べたことだったように思う。

自分の身体は、大地も同じように自分を支えてくれていることを味わったり、それを通じて、安心感を得たり、いろいろなことに目を見開かれ、大地が与えてくれる慈愛を感じ、味わうようになったというか、、、。

もっと、自分が大きなものに抱かれているような感覚を持つようになったことだろう。

このことには、とても感謝している。

 

身体のある部分に痛みがあり、それだけを治そうとしていても、また治そうと期待しても、人生は思い通りにはいかない。

誰かにやってもらえば治るのではないかと、医者を探し、お金をかけ、人によっては治療費のお金を稼ぐのに翻弄され、いつの間にか、お金を稼ぐ人生と、いろいろな医院を探す人生に明け暮れる人生に転落し、お金=生き延びる、みたいな、本当の人生の意味がわからなくなってしまうこともある。

 

人生は喜びを味わうために生きているのに、そして人生もどのくらいあるかわからないのに、その時間を犠牲にして、インターネットで情報を探すのに人生の貴重な時間を費やし、治療費を稼ぐのに睡眠時間を削ったり、生活が荒れたり、不規則になったり、医院を探し回り、通うのに疲れ、良くなるかどうか一喜一憂するので1日が終わってしまうことの連続で、いつの間にか、それで一生を終えてしまう人もいるだろう、

 

世の中には、難病もあるし、癌に至っては、高額の、保険が適用されていない治療もあるし、世の中、お金、お金、老後はこれだけ入りますと、宣伝するし、不安もかきたてられる。でも、それを追いかけてもキリがない。

 

完璧な健康を求め、完璧な健康でいることが、そのまま幸せなのだろうか。だとしたら、その幸せのために、残りすくない人生を家族との会話や、自分が大好きなことを犠牲にして、治療費を稼ぐのに明け暮れるのも意味はあるかもしれない。

 

治療に明け暮れるのも人それぞれだが、収入や自分の幸せとのバランスを考えながらするのがいいのではないかと思う。

 

私にとって本当の幸せは、人との愛や、自然への愛や、美や調和に接し、愛を感じ、生きていてよかったと心から思える瞬間であり、それは、自分の体がどのような状況であろうと、心が健康であれば、感じられるものである。

 

私は、ロルフィングで、自分の身体の重さを感じたり、力を抜いたりして、自分の体を観察することにより、自分をいたわり、味わい、愛していくことを学んだように思う。

 

大地からの反発というか、支えを感じたりすることで、自然の慈愛を感じた。

 

その、一見、小さく見える経験が、実は大きな幸せだということをこの数ヶ月、とても感じた。

 

私がこのように思ったのは、手術を受け、入院していて、いろいろな病気を抱えた患者を観察する機会もあったからだ。

 

病院なので、死んでいく人もいるだろう。親戚、家族と思われる人たちが、廊下で言い争い、いがみ合っているのを目の当たりにしたり、中には、看護婦さんにあたる人や、付き添いの人に暴力的な言葉を吐いて、病のストレスを発散している人もいた。

 

その人たちは、自分たちの感情しか見えないけれど、他の患者さんがいて、他の患者さんは、今、自分の病や痛みと闘っていて、穏やかな気持ちでいたいということに気がまわらない。さらに、余命、いくばくかの人にとっては、見ず知らずの他人の怒鳴り声や、相続争いの前哨戦の会話で、貴重な生きている時間を無駄にするは辛いことだ。人生の最後くらいは、美しい愛に満ちた思い出で終えたいものだ。

 

自分が病で辛い、かわいそうだという気持ちでいっぱいで、他人に暴力的な言葉を吐いたり、悪態をついたり、不愉快な気持ちにさせていることに気づかない。

 

また、中には自己憐憫に陥り、看護婦さんにべったりで、看護婦さんが他の患者さんを見るのにも障害になるような、依存症の人もいそうな感じもした。

 

病気や身体が動かなかったり、痛みがあることはもちろん、不安だし、辛いことではあるが、だからと言って、苦しんでいるのは自分だけではないわけだし、思いやりや、日々の小さな幸せを感じながら生きるのが良いのではないかと思った。

 

私が入院中、ベットでしていたのは、ロルフィングで習った、身体の重さを感じ、味わい、大地からの反発を感じることだ。病院では孤独だという人もいるが、私は自分の身体の重さを感じるようにしていたので、そういう風には感じなかった。自分を支えてくれる大地というものがあり、それから深い慈愛を感じる。それを落ち着きに変えていけるのは素晴らしいことだった。生きてここにいることが、それだけでも美しく思えた。

 

体を健康体に治すという気持ちに集中すると、人生はうまくいかないこともある。

お金をかけて、高い治療を受け、健康にはなったが、家族や親戚との間には愛がなかったり、権力関係であったりするのは悲しいことでもあろう。

自分が、どのように生きたいかとことをはっきりさせ、それがぶれない上で、いろいろな治療を試みたりするのがいいのではないかと思った。

 

そういう意味で、ロルフィングを受けるのも、治してもらうという受動的態度で常にいるのではなく、自分がそこから何が学べるかというのをよく考えながら、受けるのが良いと思った。