ロルフィング体験

Rolfing Experiences with Rolfer Hiroyoshi TAHATA

月別: 2026年3月

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(3/10)

西日暮里から代官山へは、千代田線で明治神宮前まで向かい、そこから副都心線へと乗り換える。移動そのものは機械的でありながら、その途上でいくつかの印象が残る。副都心線の車内で席に着いたとき、目の前に立っていた若い女性の、強い不機嫌さを帯びた眼差しが妙に記憶に残った。その視線は、対象を拒絶するようでもあり、同時にどこか閉じられた世界の内側に向けられているようにも見えた。

セッションは14時30分開始。やや早く到着したため、25分に一度ベルを鳴らすが応答はない。30分ちょうどに再び鳴らすと、今度は応答があり、扉が開いた。この一連の出来事を、時間の精度に対する暗黙の規律として私は受け取った。確認することなく、ただ「そういうものなのだ」と内的に了解する。

室内に入った瞬間から、どこか半ば眠りに入っているような、意識の輪郭がやや曖昧な状態にあることに気づく。そのためか、セッション全体の記憶は明瞭さを欠き、いくつかの断片としてしか保持されていない。

着替えを済ませ、写真撮影。その後、歩行を促される。歩く感覚について問われ、「歩いてはいるが、どこか面倒だと感じている」と答える。そのとき、自分が単に歩行という行為に対してではなく、より広い意味で生命活動全体に対して「煩わしさ」を感じているのではないか、という感覚が立ち上がる。

両足を肩幅に開き、左右に体重を移動させる単純な運動を行う。身体を観察の対象として扱う時間が、静かに始まる。

ベッドに移り、まずはうつ伏せの姿勢を取る。顔の向きを左右いずれかに固定しなければならず、頸部にわずかな負担が生じる。完全に快適とは言えない状態のまま始まるが、田畑さんがボールなどを用いて微細な調整を施し、その後しばらく時間が経過すると、身体は徐々にベッドへと沈み込み、接触面が拡張していく。最終的には、身体とベッドとの境界が曖昧になり、広がるように密着している感覚が現れた。

ここで「見守られている」と記述することはできるが、主観的にはそのような他者の存在感はほとんど知覚されていない。むしろ、私は完全に自らの身体感覚と、そこから派生する思考やイメージの流れの中に没入している。その流れがひと区切りを迎えた頃、適切なタイミングで「今、どのような感じですか」と問われる。この「区切り」の感覚と、田畑さんからの問いのタイミングが一致することに、説明しがたい不思議さがある。

続いて仰向けの姿勢へ。前回同様、各体位ごとに内的な「出来事」が立ち上がっては消えていくが、その内容はほとんど記憶に残らない。むしろ今回は、前回以上に忘却されている印象が強い。ただ、断片的な印象として、より振幅の大きい感情やイメージが生起していたように思われる。静かな状態と強い動きとが交互に現れ、そのダイナミクス自体が印象として残っている。そうした局面では、外部からの介入はほとんどなかった。

セッションの終盤、座位を取った際に明確な変化を感じた。「座っている」という事実が、これまでになく明瞭に知覚される。骨盤周辺に確かな支持があり、身体が自然に垂直方向へと組織化されている感覚があった。そこには不安定さや煩わしさはほとんどなく、むしろ安定と安心が伴っている。

その後の歩行においても、先に感じていた「面倒さ」は顕著には現れなかった。動くことに対する抵抗が、ある程度緩和されているように感じられる。

今回は「KOTSUBAN」という言葉がひとつの手がかりとして残った。解剖学的・構造的な理解は持ち合わせていないが、少なくとも経験として、腰部—骨盤周辺の安定性が質的に変化していることは明確であった。それは説明というよりも、身体そのものが示している事実として、確かにそこにあった。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(2/10)

代官山に予定より少し早く到着し、あてもなく周囲を歩いた。数度、同じ人物とすれ違う。その反復の中で、自分が「奇異な存在として見られているのではないか」という意識が立ち上がるのに気づく。それは一過的なものではなく、長く持続してきた感覚の再演であり、「周囲から逸脱した者として認識されたくない」という欲望に根ざしている。この傾向は私にとってひとつの課題であり、他者の視線から自由でありたいという希求と、いまだ緊張関係にある。

田畑さんの部屋に入ると、前回と同様に澄んだドアベルの音が響く。その音を境界として、日常的な空間から別の位相へと移行するような感覚がある。

廊下にはペンタゴンフロアマットが縦に配置されており、それらが連なって施術部屋へ誘われているよう。

着替えの後、写真撮影が行われる。私にとって撮影されるという行為は、いまだにどこか不快であり、自然に身を委ねることが難しい。その最中、「問題ありません」という態度を演じている自分に気づく。その演技が誰に向けられているのかは判然としない。ただ、自己と他者のあいだに仮構された視線を前提にした振る舞いであることだけは確かである。

指示に従い、歩行や腕の挙上を行う。自らを評価の対象として差し出すような感覚がありながら、それが奇妙に心地よい。能動性を一時的に手放し、観察される側に身を置くことは、どこか幼児的な状態への回帰を伴い、わずかな羞恥と同時に軽やかな解放感をもたらした。

ベッドに横たわり、側臥位で姿勢の調整を受ける。細部にわたり身体の位置を探り、わずかな違和感にも言葉を与えながら、最適と思われる配置を模索する。初めは「許容可能な位置」に留まっていたが、時間の経過とともに、下側の身体とベッドとが境界を失い、あたかも粘性をもつ物質同士が接触するように密着していく感覚が生じた。それに伴い、身体の重さが均質に広がり、弛緩が深まっていく。

反対側でも同様のプロセスを経るが、その間、意識は多層的に展開していた。具体的な内容はほとんど保持されていないが、現在抱えている問題や、ある人物への想念が浮かび上がり、ときに性的なニュアンスを帯び、それをさらに俯瞰する自己意識が羞恥を喚起する、といった循環があった。また、呼吸へと注意を戻す試みも断続的に行われていた。

身体感覚として特に印象的だったのは、足部、特に足趾の活動である。それは単なる運動というよりも、何らかの表出、あるいは発話に近い感覚として知覚された。言語化を試みると、その意味づけが過剰に固定され、経験の微細な差異が損なわれるように感じられる。むしろ、意味を持たないままに動き続けることによって、直接的に向き合うことを回避している感覚を、迂回的に保持しているようにも思われた。

仰臥位になると、腰部の浮遊感が際立ち、支持の不確かさが不安として立ち上がる。そのとき、幼少期にうつ伏せで寝かされていたという記憶が想起された。身体の前面に圧や重量がかかる状態のほうが、私にとっては安定をもたらすのではないかという仮説が浮かぶ。田畑さんは位置や距離を微調整しながら、しばらく静かに見守ってくれた。その後、身体の状態を問われ、改めて観察すると、先ほどまでの不安定さは消え、身体全体がベッドと連続しているような一体感があった。とりわけ手は、掌の向きすら判別できないほど、支持面と融合しているように感じられた。この状態においても、意識の内部では何らかの物語が展開していたが、その内容は想起できない。

起き上がり、ベッドに座る。直立的に座ることに慣れていないため、不安定さを覚える。右膝の向きをわずかに変えるよう指示を受け、その通りにすると、骨盤の支持が明確になり、座位が自然に成立する感覚があった。

再び歩行を試みるが、顕著な変化は認識できなかった。田畑さんは多くの問いを投げかけてくれるが、それに対して十分に応答できていない感覚がある。しかし、その不完全さをそのままにしておくことにも、ある種の許容が生まれている。歩きながら、室内に配置された複数のアート作品が視界に入り、関心を引かれるが、それについて言葉を発することにはためらいがあった。

施術後、事前と事後の写真を見せながら説明を受ける。その際、自分がそれらの視覚的な変化にほとんど関心を向けていないことに気づく。明確な効果や可視的な差異を求めているわけではない。むしろ私は、このロルフィングという経験そのものに身を置くこと、それ自体を目的としてここに来ているのではないか、そのような感覚が静かに立ち上がっていた。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(1/10)

・田畑さん、イールドを知った経緯。

イールドというワークを初めて知ったのは、ソマティックリソースラボに掲載されていたリンクからでした。女性が田畑さんに質問を重ねながら、イールドについて紹介していく動画を拝見したのがきっかけです。

わたしは昔から、謎なこと、どこか超現実的ともいえる感覚に惹かれるところがあります。ただし、どのような体験でもよいというわけではなく、自分なりに信頼がおけると感じられること、そして誠実さを感じられる相手であることが、とても大切でした。その意味で、動画越しに伝わってきた田畑さんの佇まいには、どこか静かな安心感のようなものを覚えたように思います。

・スタジオに入ったときの印象。

田畑さんのスタジオに入ってすぐ、ドアに小さな風鈴のようなものが掛けられていて、扉を開けた瞬間に、澄んだ音が鳴りました。その音が、不思議と印象に残っています。廊下には、いくつかの六角形の謎マットのようなものが整然と並んでいました。四つほどだったでしょうか。それが何を意味しているのかわからなくて、ニヤニヤしていました。

・始まった。

最初に、カウンセリングのような時間がありました。案内された椅子に腰かけると、それは半球のような形状をしていて、下にはバネが付いているのか、座ると自然に身体が揺れました。田畑さんによれば、ドイツのメーカーの椅子で、体幹でバランスをとる構造になっているとのことでした。スタジオには、ほかにも興味深いもの(テンセグリティのスカルプチャーなど)がいくつも置かれていましたが、その日は少し緊張していたこともあり、あまり質問はできませんでした。ただ、その空間全体が田畑さんなんだな〜って思っていました。

「今、どんな感じですか?」

セッションの最中、田畑さんから何度か「今、どんな感じですか?」と問いかけられました。そのたびに、わたしは言葉を探しあぐねていました。何が起きているのかを即座に説明できるような明確さはなく、かといって何も起きていないわけでもない。ただ、何かが微細に変化しているような気もする。けれど、その変化をどう名づければよいのかがわからない。

結局、そのときの困惑そのものを伝えたり、少し前の状態と比べて「さっきよりも…」といった相対的な表現で、違いの質感のようなものを、なんとか言葉にしようとしていたように思います。正確なやり取りは、正直なところあまり覚えていません。ただ、言葉にならないものと向き合う時間だった、という印象だけが残っています。

以前、「ひもトレ」とイールドの合同ワークショップで、一度だけデモンストレーションのモデルをさせていただいたことがあります。そのときは、何が起きているのかよくわからないまま、ただ「わからないこと」を楽しんでいる自分がいました。もともと、訳のわからないものに惹かれる性分もあり、とても楽しかったのを覚えています。けれど、今回の個人セッションでは、もう少し違った感覚がありました。何かが確かに起きていたような気がするのです。ただ、それを明確に説明するのはやはり難しい。そこで、感覚の近い体験をいくつか思い浮かべてみました。

・感覚の比喩

1. 保健室にいるような感覚

みんなが授業を受けている時間に、自分だけが保健室で養護の先生と静かに過ごしているような感じ。外では日常が流れているのに、わたしはそこから少し外れた場所で、時間の質が違う空間にいる。そんな感覚に近いものがあったように思います。

2. 喧騒から少し離れた場所

わたしは、大勢が集まるパーティーのような場で社交するのが、あまり得意ではありません。会場の喧騒から少し離れた喫煙所で、少人数で静かに過ごす時間や、メイン会場とは別の部屋でひっそりとくつろぐようなひとときに、どこか心地よさを感じます。

イールドのセッションにも、そうした「距離の取り方」に似た感覚があったように思います。何かから完全に離れるのではなく、しかし、べったりと巻き込まれるのでもない。そのあいだにある位置に身を置くような感じです。

3. 同じ部屋で、別々のことをしている

好きな人と同じ部屋で過ごしていながら、お互いに別々のことをしている時間。言葉を交わさなくても、同じ空間を共有しているという感覚だけで、十分に満たされるような状態。

セッション中の時間にも、どこかそれに似た静けさがありました。何かを積極的に「する」というよりも、ただ共に在ることの中で、微細な変化が起きていくような…。

これらの比喩は、イールドの施術を受けたときの感覚的な印象に、どこか似た質感を持っているように思います。ただ、それが何であったのかを、まだはっきりと言い切ることはできません。けれど、言葉にならないままの感覚を抱えながらも、その場に身をゆだねていた時間は、確かにわたしの中に何かを残しているようにも感じています。

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén