代官山に予定より少し早く到着し、あてもなく周囲を歩いた。数度、同じ人物とすれ違う。その反復の中で、自分が「奇異な存在として見られているのではないか」という意識が立ち上がるのに気づく。それは一過的なものではなく、長く持続してきた感覚の再演であり、「周囲から逸脱した者として認識されたくない」という欲望に根ざしている。この傾向は私にとってひとつの課題であり、他者の視線から自由でありたいという希求と、いまだ緊張関係にある。
田畑さんの部屋に入ると、前回と同様に澄んだドアベルの音が響く。その音を境界として、日常的な空間から別の位相へと移行するような感覚がある。
廊下にはペンタゴンフロアマットが縦に配置されており、それらが連なって施術部屋へ誘われているよう。
着替えの後、写真撮影が行われる。私にとって撮影されるという行為は、いまだにどこか不快であり、自然に身を委ねることが難しい。その最中、「問題ありません」という態度を演じている自分に気づく。その演技が誰に向けられているのかは判然としない。ただ、自己と他者のあいだに仮構された視線を前提にした振る舞いであることだけは確かである。
指示に従い、歩行や腕の挙上を行う。自らを評価の対象として差し出すような感覚がありながら、それが奇妙に心地よい。能動性を一時的に手放し、観察される側に身を置くことは、どこか幼児的な状態への回帰を伴い、わずかな羞恥と同時に軽やかな解放感をもたらした。
ベッドに横たわり、側臥位で姿勢の調整を受ける。細部にわたり身体の位置を探り、わずかな違和感にも言葉を与えながら、最適と思われる配置を模索する。初めは「許容可能な位置」に留まっていたが、時間の経過とともに、下側の身体とベッドとが境界を失い、あたかも粘性をもつ物質同士が接触するように密着していく感覚が生じた。それに伴い、身体の重さが均質に広がり、弛緩が深まっていく。
反対側でも同様のプロセスを経るが、その間、意識は多層的に展開していた。具体的な内容はほとんど保持されていないが、現在抱えている問題や、ある人物への想念が浮かび上がり、ときに性的なニュアンスを帯び、それをさらに俯瞰する自己意識が羞恥を喚起する、といった循環があった。また、呼吸へと注意を戻す試みも断続的に行われていた。
身体感覚として特に印象的だったのは、足部、特に足趾の活動である。それは単なる運動というよりも、何らかの表出、あるいは発話に近い感覚として知覚された。言語化を試みると、その意味づけが過剰に固定され、経験の微細な差異が損なわれるように感じられる。むしろ、意味を持たないままに動き続けることによって、直接的に向き合うことを回避している感覚を、迂回的に保持しているようにも思われた。
仰臥位になると、腰部の浮遊感が際立ち、支持の不確かさが不安として立ち上がる。そのとき、幼少期にうつ伏せで寝かされていたという記憶が想起された。身体の前面に圧や重量がかかる状態のほうが、私にとっては安定をもたらすのではないかという仮説が浮かぶ。田畑さんは位置や距離を微調整しながら、しばらく静かに見守ってくれた。その後、身体の状態を問われ、改めて観察すると、先ほどまでの不安定さは消え、身体全体がベッドと連続しているような一体感があった。とりわけ手は、掌の向きすら判別できないほど、支持面と融合しているように感じられた。この状態においても、意識の内部では何らかの物語が展開していたが、その内容は想起できない。
起き上がり、ベッドに座る。直立的に座ることに慣れていないため、不安定さを覚える。右膝の向きをわずかに変えるよう指示を受け、その通りにすると、骨盤の支持が明確になり、座位が自然に成立する感覚があった。
再び歩行を試みるが、顕著な変化は認識できなかった。田畑さんは多くの問いを投げかけてくれるが、それに対して十分に応答できていない感覚がある。しかし、その不完全さをそのままにしておくことにも、ある種の許容が生まれている。歩きながら、室内に配置された複数のアート作品が視界に入り、関心を引かれるが、それについて言葉を発することにはためらいがあった。
施術後、事前と事後の写真を見せながら説明を受ける。その際、自分がそれらの視覚的な変化にほとんど関心を向けていないことに気づく。明確な効果や可視的な差異を求めているわけではない。むしろ私は、このロルフィングという経験そのものに身を置くこと、それ自体を目的としてここに来ているのではないか、そのような感覚が静かに立ち上がっていた。
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