西日暮里から代官山へは、千代田線で明治神宮前まで向かい、そこから副都心線へと乗り換える。移動そのものは機械的でありながら、その途上でいくつかの印象が残る。副都心線の車内で席に着いたとき、目の前に立っていた若い女性の、強い不機嫌さを帯びた眼差しが妙に記憶に残った。その視線は、対象を拒絶するようでもあり、同時にどこか閉じられた世界の内側に向けられているようにも見えた。

セッションは14時30分開始。やや早く到着したため、25分に一度ベルを鳴らすが応答はない。30分ちょうどに再び鳴らすと、今度は応答があり、扉が開いた。この一連の出来事を、時間の精度に対する暗黙の規律として私は受け取った。確認することなく、ただ「そういうものなのだ」と内的に了解する。

室内に入った瞬間から、どこか半ば眠りに入っているような、意識の輪郭がやや曖昧な状態にあることに気づく。そのためか、セッション全体の記憶は明瞭さを欠き、いくつかの断片としてしか保持されていない。

着替えを済ませ、写真撮影。その後、歩行を促される。歩く感覚について問われ、「歩いてはいるが、どこか面倒だと感じている」と答える。そのとき、自分が単に歩行という行為に対してではなく、より広い意味で生命活動全体に対して「煩わしさ」を感じているのではないか、という感覚が立ち上がる。

両足を肩幅に開き、左右に体重を移動させる単純な運動を行う。身体を観察の対象として扱う時間が、静かに始まる。

ベッドに移り、まずはうつ伏せの姿勢を取る。顔の向きを左右いずれかに固定しなければならず、頸部にわずかな負担が生じる。完全に快適とは言えない状態のまま始まるが、田畑さんがボールなどを用いて微細な調整を施し、その後しばらく時間が経過すると、身体は徐々にベッドへと沈み込み、接触面が拡張していく。最終的には、身体とベッドとの境界が曖昧になり、広がるように密着している感覚が現れた。

ここで「見守られている」と記述することはできるが、主観的にはそのような他者の存在感はほとんど知覚されていない。むしろ、私は完全に自らの身体感覚と、そこから派生する思考やイメージの流れの中に没入している。その流れがひと区切りを迎えた頃、適切なタイミングで「今、どのような感じですか」と問われる。この「区切り」の感覚と、田畑さんからの問いのタイミングが一致することに、説明しがたい不思議さがある。

続いて仰向けの姿勢へ。前回同様、各体位ごとに内的な「出来事」が立ち上がっては消えていくが、その内容はほとんど記憶に残らない。むしろ今回は、前回以上に忘却されている印象が強い。ただ、断片的な印象として、より振幅の大きい感情やイメージが生起していたように思われる。静かな状態と強い動きとが交互に現れ、そのダイナミクス自体が印象として残っている。そうした局面では、外部からの介入はほとんどなかった。

セッションの終盤、座位を取った際に明確な変化を感じた。「座っている」という事実が、これまでになく明瞭に知覚される。骨盤周辺に確かな支持があり、身体が自然に垂直方向へと組織化されている感覚があった。そこには不安定さや煩わしさはほとんどなく、むしろ安定と安心が伴っている。

その後の歩行においても、先に感じていた「面倒さ」は顕著には現れなかった。動くことに対する抵抗が、ある程度緩和されているように感じられる。

今回は「KOTSUBAN」という言葉がひとつの手がかりとして残った。解剖学的・構造的な理解は持ち合わせていないが、少なくとも経験として、腰部—骨盤周辺の安定性が質的に変化していることは明確であった。それは説明というよりも、身体そのものが示している事実として、確かにそこにあった。