セッション11回目

田畑さんと対峙すると、私は毎回ただただ‘無’になる。セッション台に体を横たえて目を閉じると、始まりがどこで、終わりがどこなのか、またそれさえもあるのかないのかわからない、広大ななにかを覗き見る感覚が、すっ、とやってくる。ひたすら‘無’となった自分は、ずっとあるがままで、やがてそのなかにどっぷりと浸りだす。

その感覚に戻りたくてしょうがなかった。やっと戻ってくることができて、今回はかなり気分が高揚していたように思う。

‐顔を左に向けて目を閉じていると、浮かんできたのは海のイメージ。見た瞬間に、わっ、と心奪われる、青の色。深みがあるけれど重くなく、言葉には表しがたい絶妙な色、その青が、波を思わせる、こちらもまた落ち着きがありながらも軽さも感じる、とても好ましい白、と層をなしている。私はその情景を目にするやいなや、体を伸ばすだけ伸ばして、元気いっぱいに泳ぎだす。泳ぎながら、その青と白の景色の質感が、これもまた自分の好きな感じ~高級な画用紙、高級なカンバス、のような、しっとりとして落ち着きの感じられる質感~であることに気づくと、体中にエネルギーがどんどん満ちてくる。気分は絶好調、言葉にすると、「よっしゃーっ!!」とでも例えることができそうなほど。

しばらくすると、今度はエメラルドグリーンの海の中を、海面に向けて思いっきり体を伸ばしながら昇っていく体感、幾つもの細かい泡の粒が立ちのぼっていたから、ダイビングでもしていたのだろうか。そのエメラルドグリーンの色を見た瞬間思い出したのは、高知県へと向かう旅の途中、ふと車窓に目をやったときに、思いもかけず視界に飛び込んできた川の色。そのなんともいえない美しい色に釘付けとなった、あの川の色とおんなじだ、と思いあたると、とてもさわやかで軽やかな気分に満たされる感じがした。

その後しばらくすると、こんどはおぼろげな島の姿が浮かんでくる。ぼんやりとした景色なのに、それを感じた瞬間、私は、‘あ、江の島だ’、と思う。子どものころ、海水浴といえば、江の島海岸だった。自分が子どもだった時の記憶は、写真でみる以外にないけれど、自分が親になってわが子を何度か連れていったときの記憶がよみがえる。最寄りの駅までの電車の中から、すでに海水浴気分の乗客たち、人々で溢れかえる砂浜、カラフルなパラソルの色、水着の色、砂の上をあるく足裏の感覚、お世辞にもきれいとはいえない海水の色、午後になると適度に波がでてきて、浮き輪をつけてその波と戯れる楽しさ。なにより、ふと視線を上げると、右前方にいつも江の島がいてくれることの、大きな安心感。

関西や日本海の、人の多さも適度で、透き通ってきれいな海も知っているわが子は「人が多すぎてうまく泳げないし、潜っても水が汚なくてなんにも見えないよ~」とよく言っていたけれど、私は「海水浴は、やっぱり江の島がいつも見えるところにいてくれる、江の島海岸が最高さ!」と思っている、そんな気持ちにずっと浸っていると、江の島の奥に、オレンジ色の夕焼けが水平に広がりだす。徐々に涙があふれてきて、少しだけ声をあげて泣いてしまうが、最後には笑みも浮かべていた。

そうこうするうちに、こんどは上体を起こそうとする動き。今回起こそうとする動作のときに、例えると、適当な厚みのあるバームクーヘンを4つ位に切って、左右は解放、上下のカーブだけが残っている形をしているものが目の前にあらわれる。私は、それを、なんだか橋のようだ、と感じている。その曲がりに沿って、その形の真ん中に、黒くて、弾力が感じられる、ゴムのような質感のものが集まってできたような物質、決して太くはないけれども、十分な太さと強度がある、とかんじられる1本のものがある。そのものが、私が起き上がろうとする方向に力強く安定感のある流れをつくっていて、起きようとする私は、その流れにそって自然と体を起こすことになる。10セッション中、体を起こす動きのとき、「体のどこにも力を入れていないのに、どうしてこんなことがスムーズにできるのだろうか」と、身体の不思議さにいつも驚かされていたけれど、今回のこの出来事に、「起き上がる動作は、自分ができるとか、やっている、ではなくて、そちらに流れがあるから、ただそちらに自然と移っていっているのだ」という気持ちになり、なんだか大きな発見をした気分であった。

起き上がって、セッション台に腰を下ろす。両腕を、肘からだっただろうか、後ろに引いて、肩甲骨を動かしているような動きをしながら、上半身を起こしたり、腰から前かがみになって広げた足の間にうずめていくことを交互にしている感覚。上半身を起こしているときには、ただ真っ白な情景がうかぶ。その白は、最初に出てきた波の白とは対照的に、無機質で、なんだかとても冷たい印象の白。両足を広げ、その間に上半身を倒していく動きの時には、ただ真っ黒な情景。のっぺらぼうな黒、なにも語りかけてくる気配のない色。

これらの動きを何度か繰り返したあと、上半身を起こしたままにしていると、目の前の情景は、上半分は白、下半分は黒、と真ん中から真っ二つにわかれたものとなる。その景色を目にしていると、涙があふれてきて、いや、そうじゃないんだ、これは違う、という強い気持ちが湧いてくる。涙を流しながら、どんどんとその気持ちが強くなっていき、涙とともに、こういう状況は払しょくするのだ、この情景とはきっぱりと決別する、という気持ちが、腹の中から湧き上がってきた。

田畑さんに促されて歩いてみると、上述の強い気持ちが歩みにそのまま乗り移ったかのようで、一歩一歩が力強く、腹のすわった歩みだな、と感じていた。

‐今回のセッションでは最初から最後まで、息を吐くことに重きを置いていたようで、途中、呼吸に意識が向くと、いつも深く息を吐いていた。10セッション中では、自分が呼吸をしているのか、していないのかがわからなくなって、‘ん、私は生きているのだろうか?’と、意識して息を吸ったり吐いたりして、大丈夫なことを確かめることが度々あったが、吐くことにここまで重きをおいていたのは初めてのことだった。

‐不思議だったのは、どのタイミングだったか、上体を起こして白い情景を目の前にしていたときに、何かの匂いを感じたこと。なんだろうか、としばらくその匂いを感じていると、それは、前のセッションルームで一度だけ感じたことのあったアロマ?の香りへと変化し、しばらくその匂いを感じていたが、すっと消えていった。

‐セッション後、自分の思いをただただ語ってしまった。帰途、山手線で品川に着く2,3駅手前で、マスクをしていないことにはっと気づいて慌ててしまった。その時点までセッションにすっかり浸りきっていたようであった。

‐セッション翌日からしばらく、首の右側、そこから少し下がった肩、背中のあたりが強烈に凝った感じだった。10セッションの時にもこのあたりが凝った感じはあったが、そのときよりもすこし範囲が狭まって、そのぶん凝った感じの強度がかなり増した感触。あ、ポイントはここなのだな、と身体に教えてもらったようで、なぜか、一緒に頑張ろう、と身体に自然と話しかけていた。

‐セッションから2週間後くらいに、左の鼻から出血、左鼻の奥から、血とともになにかが流れ落ちていった感じがした。

‐セッションから3週間後くらいに、椅子に座っていたら、腰の上に上半身がうまく乗って、体がぎゅんと上に伸びていくことを体感する。その少し前から、肋骨の下の線に沿って、腹側、背中側、左右体側とも、動きの自由度がかなり増していることを感じていた。それにともなって、着地面の足の安定感が一段と増した感じがする。

‐そのころみた夢。幾つか短い夢をまとめて見ていたようで、ごちゃごちゃとして、内容ははっきりと覚えていないのだが、結論として、「自分で決めこんで、だからこうなるんだ、と勝手に思っているだけなんだ、実際は、流れとしてこんなにうまく事が運んでくれるんだ」、という感想を持って目が覚めた。

‐最近、こころのバランスボードに乗ると、右足をおもいきり外側に開き、右肩をしばらくいろんな形で回してから、足を戻し、そのあと、両足の間隔を狭める動きをして、上方に伸びていく、というのが続いている。

‐5月の連休中に、小田和正さんのコンサートが放映されることにたまたま気づいて、最近聴いていないなあ、久しぶり、と思いながらチャンネルを合わせた。穏やかな表情で、自分の気持ちを素直に歌詞にして、それを音に乗せて、語りかけるかのようにすっと届けてくれている小田さんの歌声を、耳ではなく、身体が受け止めている気がして、なぜか涙が止まらなくなってしまった。

途中インタビューがあって、「自分はとにかく人と話をすることが嫌でしょうがなかったが、コンサートを続けているうちに、何故か歌いながら振りのようなことを思いもかけず自然としてしまって 、‘おれ、何してるんだ?!’と自分でも思うことがあったり、ふとステージから降りてみると、みんなの笑顔があふれていることに気が付いたりして…」自分が変わっていった、というようなことを、ほんとうに穏やかな表情で語っていた。学生の頃、解散間近か、といわれていたオフコースのコンサートを見にいって、ただただストイックに曲を重ねていく小田さんの姿がなんとなく思い出されて、ああ、あの頃はそうだったんだ、でも人はいくつになっても鮮やかに変わることができるんだ、と思わされ、その姿を今の自分に重ね合わせてしまったための涙、だったのかもしれない。