ロルフィング体験

Rolfing Experiences with Rolfer Hiroyoshi TAHATA

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(9,10/10)

本来であれば、第9回、第10回ともに、もっと早くレポートを提出すべきでした。ずいぶん時間が経ってしまい、田畑さんには申し訳なく思っています。

第9回は5月13日、第10回は5月23日。

田畑さんから「時間が経っても、その後、自分の身体に起こっていることを書いてくれればいい」と言っていただいていたので、今回はセッションそのものというよりも、その後の身体の変化について書いてみようと思います。

まず、身体の変化は想像以上に大きかったです。

一番わかりやすい変化は体重で、最初にセッションを受けた頃から約5kg減りました。もちろん体重が減ったこと自体もありますが、それ以上に、身体が軽くなったことで、行動を始めるまでの「初動」がずいぶん楽になりました。以前は、何かを始めること自体に小さな抵抗がありましたが、その抵抗が少しずつ薄くなっているように感じています。

最近は瞑想をかなり集中的に続けています。その中で、とても興味深いことに気づきました。

瞑想中、ときどき呼吸が突然深くなる瞬間があります。思考がひと区切りつき、「ふっ」と身体がほどけるような瞬間です。

その感覚が、田畑さんから毎回、「今、どんな感じですか?」と声をかけられるタイミングと驚くほどよく似ていることに気づきました。

つまり、私にとって田畑さんのセッションは、瞑想ととても近い質を持っていたのだと思います。

身体に触れている時間よりも、触れていない時間のほうが圧倒的に長い。それでも、その静かな時間の中で、身体や心の内部では確かに何かが起き続けている。

その在り方は、私にとって「ネガティブ・ケイパビリティ※」という言葉を身体で理解する経験でもありました。

何かを積極的に変えようとするのではなく、答えを急がず、ただそこに居続けること。

田畑さんの関わり方は、とても非介入的でした。だからといって放任でもない。何かを誘導されている感覚も、変えられている感覚もありませんでした。

極端な言い方をすれば、セッション中、そこには私しかいなかったように感じる瞬間さえありました。

私の身体や心の中で様々なことが起こり、それらが少し落ち着き、呼吸が自然と深くなった、その絶妙なタイミングで、「今、どんな感じですか?」と田畑さんが尋ねる。

その繰り返しでした。

毎回、「何かが起こった」と断言できるほど明確ではありません。

でも、「何かが起こっている気がする」。

今振り返ると、この「気がする」という曖昧さこそが、私にとって一番重要だったように思います。

一般的な整体などでは、「ここがこう変わりました」と施術者から変化を説明されることがあります。もちろんそれ自体を否定するつもりはありませんが、私にとっては、どこか説得されているような感覚になることもありました。

一方で田畑さんのセッションでは、変化の主体はいつも私自身でした。

施術の前後で写真を撮っていただき、そこから身体の変化について説明してもらうこともありましたが、不思議なことに、そのこと自体にはあまり関心がありませんでした。「そうなんですね」と受け取るくらいで、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。

私にとって本当の実感は、セッションの最中ではなく、その後の日常生活の中で立ち現れてきました。

歩いているとき、「歩いている」という感覚そのものが以前より豊かになっていること。

筋肉を部分的に使っているのではなく、身体全体が連動しながら動いている感覚。

言葉にすると少し違ってしまうのですが、「全体がつながっている」という身体感覚が少しずつ育ってきました。

身体が整ってきたことで、瞑想も以前より深く坐れるようになった気がしています。

私にとって瞑想は、集中力を養うためにもとても大切な実践です。その質が変わったことは、日常生活にも少しずつ影響を与えています。

以前よりも、多動的な落ち着かなさが和らいできているようにも感じます。

そして、この10回を通して、最も大きな影響を受けたのは、私自身がセラピストとしてクライアントと関わる姿勢かもしれません。

「相手を変えようとしない」という言葉は、これまで何度も耳にしてきましたし、自分でもそうありたいと思っていました。

けれど、頭で理解していることと、身体を通して理解することは、まったく別の出来事でした。

田畑さんのセッションを経験したことで、自分が思っていた以上に、相手を変えようとしていたことに気づくようになりました。

それは技法の問題ではなく、「在り方」の問題だったのだと思います。

この10回は、ロルフィングを受けた時間というだけではなく、「人はどのように誰かと関わることができるのか」を、自分の身体を通して学ぶ時間でもありました。

注釈
ネガティブケイパビリティとは、すぐに答えや結論を出そうとせず、分からなさ・曖昧さ・矛盾の中にとどまる力のことだそうです。

もともとは英国の詩人ジョン・キーツが使った言葉で、後に精神分析家ウィルフレッド・ビオンも、臨床における重要な態度として発展させたとあります。

たとえば、相手の状態を見て、

  • 「原因はこれだ」
  • 「この人にはこの方法が必要だ」
  • 「早く問題を解決しなければならない」

と即座に決めつけるのではなく、まだ意味が十分に立ち上がっていない段階で、観察し、感じ取り、待つことです。

ただし、これは何も考えないこと判断を放棄することではなく、
むしろ、拙速な意味づけを保留しながら、必要なときには判断できる状態を保つことが求められます。

セッションの場面でいえば、

「何が起きているのかを、すぐに説明しようとせず、身体や関係性の中から次の方向が現れるのを待つ力」

と表現できます。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(8/10)

田畑さんのマンション近くのビルのガラスに映った自分の姿が、以前より少し痩せて見えた。その瞬間、思わずセルフィーを撮っていた。単純に、嬉しかったのだと思う。

一方で、やはり写真を撮られることには独特の違和感がある。どうしてこんなにも落ち着かないのだろう、と改めて考えた。おそらく、カメラを向けられると、「見られている」「評価されている」という感覚が立ち上がるのだと思う。普段は忘れていられても、意識に浮上すると、その感覚から完全に自由ではいられない。

たぶん私は、長いあいだ社会からジャッジされることを恐れていて、その視線をカメラのレンズへ投影しているのだと思う。

そして今、この文章を書きながら、さらに気づいたことがある。写真を撮られる瞬間、私はいつも「外見」のことばかり考えている。本来なら、その場で起きている感覚や気分を感じ、そのまま存在していればいいはずなのに、「ちゃんと写っているだろうか」「ブスに見えていないだろうか」とばかり気にしている。つまり、カメラを向けられた瞬間、私はその場からいなくなってしまっている。

さて、施術が始まる。

今回は、うつ伏せで首を左に向けるバージョンと右に向けるバージョン、その後に仰向け、さらに膝を立て、両手を天井方向へ上げた姿勢を一定時間保つ、という流れだった。

印象的だったのは、そのポジションへ入っていくまでの田畑さんのガイドの繊細さだった。身体を無理に「形」に合わせる感じではなく、導かれるまま委ねていると、自然とちょうど良い場所へ収まっていく。すると、自分では力を入れていないつもりなのに、腕がその位置に静かに存在し続けている。それは私にとってかなり不思議な体験だった。

もしかすると、「委ねる」ということが、以前より少しずつできるようになってきているのかもしれない。……まあ、わからないけれど。

途中、脇の下に触れられた時、ものすごくくすぐったかった。

田畑さんと話していると、毎回なにかしら新しい発見がある。なのに、その場では確かに掴んだはずのものを、あとになると驚くほど忘れてしまう。それが少しもったいなくもあり、同時に、このプロセスらしい気もしている。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(7/10)

田畑さんのマンション近くのビルのガラスに映った自分の姿が、以前より少し痩せて見えた。その瞬間、思わずセルフィーを撮っていた。単純に、嬉しかったのだと思う。

前回よりはいくらか記憶が残っている気がするものの、それでも初期の頃と比べると、明らかに記憶の密度は薄い。けれども、その希薄さと引き換えに、自分の身体により深く委ねているような感覚がある。この文章を書きながら、「ああ、私は少しずつ自分の身体に任せられるようになってきているのかもしれない」と気づき、そのことに小さな喜びを感じている。

これまで私は、自分の身体との関係性があまり良いとは言えなかった。むしろ、どこかで拒絶し、時に憎しみすら抱いていたと思う(それは今も完全には消えていないかもしれない)。だからこそ、その関係がわずかでも緩んできているのだとしたら、それは私にとって確かな変化として受け取れる。

ゲシュタルトの場では、主に言葉を通じて自己と向き合ってきた感覚がある。ただ、思考を介することで、触れたくない領域を巧妙に回避してしまうことも少なくない。その点、田畑さんのロルフィングは、過度な圧や誘導を感じることなく、安心感の中で自然に自分自身と出会っていくプロセスのように感じられる。意図的に向き合おうとしなくても、気づけば触れている、そんな質の体験がそこにある。

第1回目と比べると、田畑さんの位置関係や働きかけに対して、自分の身体感覚をもとに応答することが、以前よりも難しくなくなってきているように思う。「こちらのほうがいい」といった具体的なフィードバックを、比較的明確に伝えられている感覚がある。

また、自分が行っているゲシュタルトのセッションにも、変化が現れている気がする。簡単に言えば、田畑さんの在り方をどこかで模倣し始めている。意識的というよりは、自然と影響を受けているのだと思う。これまでの自分の関わり方は、やや過介入的だったのではないかという反省も浮かび、その背景にあった動機について考えることもある。ただ、その詳細については、ここではあえて言語化しないでおく。

身体と心の変化として感じているのは、「静かであること」への志向である。以前は何かが起こるとすぐに誰かに話したくなっていたし、その衝動は今も残っている。しかし最近は、それらをすぐに外に出すのではなく、自分の内側でしばらく保ち、熟成させていたいと思うようになっている。

そしてもうひとつ、自分の人生に対して、以前よりも真剣に向き合おうとしている感覚がある。どこかで扱いにくいと感じていたこの身体とともに、これからも生きていくしかないのだとすれば、他者に委ねるのではなく、自分の力で生きていこうとする意志が、静かに立ち上がってきているのかもしれない。

一方で、やはり写真を撮られることには独特の違和感がある。どうしてこんなにも落ち着かないのだろう、と改めて考えた。おそらく、カメラを向けられると、「見られている」「評価されている」という感覚が立ち上がるのだと思う。普段は忘れていられても、意識に浮上すると、その感覚から完全に自由ではいられない。

たぶん私は、長いあいだ社会からジャッジされることを恐れていて、その視線をカメラのレンズへ投影しているのだと思う。

そして今、この文章を書きながら、さらに気づいたことがある。写真を撮られる瞬間、私はいつも「外見」のことばかり考えている。本来なら、その場で起きている感覚や気分を感じ、そのまま存在していればいいはずなのに、「ちゃんと写っているだろうか」「ブスに見えていないだろうか」とばかり気にしている。つまり、カメラを向けられた瞬間、私はその場からいなくなってしまっている。

さて、施術が始まる。

今回は、うつ伏せで首を左に向けるバージョンと右に向けるバージョン、その後に仰向け、さらに膝を立て、両手を天井方向へ上げた姿勢を一定時間保つ、という流れだった。

印象的だったのは、そのポジションへ入っていくまでの田畑さんのガイドの繊細さだった。身体を無理に「形」に合わせる感じではなく、導かれるまま委ねていると、自然とちょうど良い場所へ収まっていく。すると、自分では力を入れていないつもりなのに、腕がその位置に静かに存在し続けている。それは私にとってかなり不思議な体験だった。

もしかすると、「委ねる」ということが、以前より少しずつできるようになってきているのかもしれない。……まあ、わからないけれど。

途中、脇の下に触れられた時、ものすごくくすぐったかった。

田畑さんと話していると、毎回なにかしら新しい発見がある。なのに、その場では確かに掴んだはずのものを、あとになると驚くほど忘れてしまう。それが少しもったいなくもあり、同時に、このプロセスらしい気もしている。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(6/10)

正直なところ、今回はほとんど記憶が残っていない。回を重ねるごとに、田畑さんのもとを訪れているという出来事そのものの記憶が希薄になっていく一方で、それとは逆行するかのように、身体との接続はむしろ明瞭になっているように感じられる。この反比例的な関係が、私にとっては興味深く、同時にどこか不可思議でもある。

この日は、うつ伏せの姿勢から始まり、その後仰向けへと移行する、比較的シンプルな構成だった。全体として強い印象を伴う場面は少なく、いわば「何も起きていない」ような静かな時間として記憶されている。

しかし、私の中ではひとつの感覚的な仮説が形づくられつつある。それは、「記憶に残らないほど、プロセスはうまく進んでいるのではないか」というものである。意識的に把握できる出来事が少ないほど、身体のレベルでは何かが円滑に進行しているのではないか、という感覚だ。

そのため、施術中はなるべく思考を働かせず、理解しようとする衝動を手放しておきたいという気持ちが自然と生まれている。何かを捉えようとするよりも、むしろ「通過させる」ような在り方のほうが、この体験においては適しているのかもしれない。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(5/10)

行きの電車で、宇多田ヒカルなど、日本の音楽を聴きながら千代田線を待つ。ホームの向かいに座っていた男性の存在が、なぜか強く印象に残った。整った容貌というだけでなく、口元、とりわけ私から見て右側にわずかな緊張が見て取れた。その噛みしめるような表情に、どこか色気を感じる自分がいる。同時に、その緊張を崩したくなるような衝動が、ある種のサディスティックな傾向、あるいは父親像への複雑な感情の投影が立ち上がることにも気づいている。

開始まで少し時間があったため、近くのジューススタンドに入る。そこでのやり取りに、軽い苛立ちを覚えた。持ち帰り用カップで店内利用を希望した際、店員の応対は一貫せず、判断が宙吊りにされたような状態が続いた。些細な出来事ではあるけれど、その曖昧さが神経に触れたのだと思う。

まず、今回のセッションがとても強い印象をでした。

いつも通りの写真撮影から始まるが、このプロセスに対する感情はすでにほとんど中性化している。

施術は仰向けから始まる。横たわった直後から、身体が重力に明確に引き込まれていく感覚があった。その中で、特定の女友達のイメージが浮かび、やがて「女性一般」に対する苛立ちへと広がっていく。とりわけ、いわゆる「ぶりっ子」とされる振る舞いに対する嫌悪が際立っていたのが、自分でも興味深い。同時に、その反応が、かつて自分がそう振る舞うことを抑えてきた感覚。ぶりっ子であることを許されなかった、あるいは自ら禁じてきた側面を彼女たちに投影しているのではないか、という可能性にも思い至る。

施術の途中、腹部周辺だっただろうか正確な部位は曖昧だが触れられている最中に、「誰かに自分を預けることができない」という感覚が不意に立ち上がる。それは身体的な意味でも、心理的な意味でも同時に作用していたように思う。その瞬間、軽い悲しみが込み上げ、自然に涙が出た。田畑さんから「できていますよ」と言葉をかけられたとき、奇妙な安堵と嬉しさがあった。

細部の記憶は曖昧だけれど、片脚ずつ伸ばすような動きがあったことは覚えている。その際にも何らかの気づきがあったはずだが、内容はうまく思い出せない。

呼吸の変化は特に印象的だった。これまでにないほど、呼吸が容易で、深く、抵抗なく行われる感覚がある。吸うときに、下腹部、いわゆる丹田と呼ばれる領域へ呼吸を「届ける」ようなイメージ、さらに仙骨がわずかに前傾する感覚を伴わせるよう、田畑さんから示唆を受けた。このイメージは、身体の内部構造を静かに組み替えていくような手応えがあった。

一連の「見守り」の時間が終わり、座る時間へと移る。ここで、自分がいわゆるパニック傾向を持っていることについて話した。私の場合、呼吸に意識を向けることが引き金になることがある。しかし今回、呼吸があまりにも自然に深まるため、逆に「パニックになるのではないか」という予期が立ち上がる。けれど実際には発作は起こらない。その結果、「起こるはずのものが起こらない」ことに対して、別の不安、いわばメタレベルのパニックが生じかけた。ただ、それも現実の発作には至らなかった。

田畑さんのコメントとして印象に残っているのは、「大腰筋から脚へ」というイメージ。大腰筋が動くことで内臓の動きにも良い影響があること、さらに階段の上り下りが楽になるという話もあった。実際、帰り道でその変化は体感された。

また、丹田と感じられる領域をそのまま下へ落とすようなイメージでしゃがむ練習をしたとき、身体の使い方に関する新たな手がかりを掴んだように感じた。

帰りの電車では、本来は明治神宮前で乗り換えるところを誤って渋谷で降りることになった。渋谷に降り立った瞬間、言葉にしにくい違和感があった。その感覚を辿ると、幼少期に父親に連れられて通っていた西野流呼吸法の記憶へとつながる。その施設が渋谷にあったため、この場所自体が無意識のうちに避けたい場所として残っているのだと気づいた。過去の経験が、今の身体感覚や情動に静かに影響し続けていることを、あらためて実感した。

後頭部の違和感 

呼吸

北陸にお住まいのTさんは、年に2,3回個人セッションにお見えになります。今回はセッションのみの用事でお越しになったとのことでした。以下レポートを御本人の許可を得て転載させて頂きます。


今回はとにかく呼吸でした。 呼吸することを当たり前過ぎて気がつきもしない呼吸、 それをみるように大きく吸い込む、吐くを繰り返していました。
 初めは大きな呼吸のリズムに 驚きましたが、次第に快適になっていきました。 呼吸することで、体内の空間が 照らされ、いつも感じている違和感のある部位が膨らんでいくような感覚、 癒着が剥がれていく感じがありました。 
その新しい膨らみに行き止まりを感じていた時 田畑さんのやさしいタッチで行き止まっていた 辺りの鳩尾の固まりが数回ひっくり返るような感じがあり、呼吸が通り、いき渡るような感覚がありました。 
 身体は、呼吸することで身体を調えているのでしょうか、普段、当たり前に呼吸していることを忘れがちですが 呼吸していることで生きて生かされているのかと、呼吸の深さ、大切さを思い知ったようにも思っています。
 大きい呼吸と田畑さんの全く圧を感じない数回のタッチで胸上部の気道が忙しく動き、尾骨から首の頸椎まで振動しながら、通った感覚がありました。 潰れたホースに水が通っていくように。 呼吸が通ることで体内の空間が変わった、動く、調整される、ということか、。 

数日経ち、 セッション前と変わりなく過ごしていますが、 胸上部辺り、背中全体が、身体全体も軽く 身体って、こんなにさっぱりと軽いのか、 と時折、ふと感じます。 呼吸は体内のパトロール隊か、 と思うと可笑しくなったりしています。


 長年違和感が拭えなかった後頭部が 静かになりました。 雑音が消えたように静かです。 音として聴いていたわけではありませんが、 細かい振動音が消えた、ように静かです。 様子見しながら過ごしたいと思います。 今日も静かです。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(4/10)

本来であれば当日中に記述すべきところ、今回は書き留めることを失念し、気づけば一日以上が経過していた。もともと私の記憶は時間の経過とともに容易に散逸する傾向があるため、この遅延は体験の輪郭をさらに曖昧なものにしている。それでもなお、残存している断片を手繰り寄せながら記述を試みる。

その日は雨だった。代官山駅からスタジオへ向かう途中、セブンイレブンに立ち寄り、サーモンのおにぎりと水を購入する。イートインスペースで短く時間を調整し、ほぼ定刻にスタジオへ到着した。この一連の行為は、もはや反復の中で身体化されつつあり、特段の意識的努力を要さない。

到着後は、これまでと同様の流れで準備が進む。着替え、用足し、そして写真撮影。正面、側面、背面と、複数の角度から身体が記録される。この撮影行為自体に対する感情は依然として複雑であるが、施術後にそれらの写真をもとに言葉が添えられる時間は、理解の完全性とは別の次元で、静かな喜びを伴っている。

施術は、今回も複数の体位において進行し、それぞれに「ミマモリタイム」(と私が呼んでいるもの)が含まれていた。印象的だったのは、各体位において身体が落ち着くまでの時間が、これまでよりも長く感じられたことである。それに呼応するかのように、内的な世界は持続的にざわめいており、静止することなく何かしらの思考やイメージが生成され続けていた。

施術後、いつものように歩行や座位の確認を行う。座った際の感覚について、「安定がやや乏しい」と伝えたところ、田畑さんは即座に対応し、あぐらをかいた膝の下あたりに手を添えた。その介入は極めて最小限でありながら、驚くほど即時的に安定感が立ち現れた。この変化の即効性と明確さは、依然として私にとって不思議な現象として知覚される。

さらに、「座る角度を少し変えて観察してみてください」との提案を受け、いくつかの方向で試みる。すると、わずかな向きの違いによって、座位の質としか言いようのないものが明確に変化することが体感された。単なる「安定/不安定」という二分では捉えきれない、微細な差異の存在が浮かび上がる。

対話の内容については詳細な再現が難しいが、「ゆっくり進めること」の重要性に触れられた記憶がある。

セッション終了後の対話の時間において、これまでよりもわずかに田畑さんとの距離が縮まったような感覚があった。

私は田畑さんが好きです。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(3/10)

西日暮里から代官山へは、千代田線で明治神宮前まで向かい、そこから副都心線へと乗り換える。移動そのものは機械的でありながら、その途上でいくつかの印象が残る。副都心線の車内で席に着いたとき、目の前に立っていた若い女性の、強い不機嫌さを帯びた眼差しが妙に記憶に残った。その視線は、対象を拒絶するようでもあり、同時にどこか閉じられた世界の内側に向けられているようにも見えた。

セッションは14時30分開始。やや早く到着したため、25分に一度ベルを鳴らすが応答はない。30分ちょうどに再び鳴らすと、今度は応答があり、扉が開いた。この一連の出来事を、時間の精度に対する暗黙の規律として私は受け取った。確認することなく、ただ「そういうものなのだ」と内的に了解する。

室内に入った瞬間から、どこか半ば眠りに入っているような、意識の輪郭がやや曖昧な状態にあることに気づく。そのためか、セッション全体の記憶は明瞭さを欠き、いくつかの断片としてしか保持されていない。

着替えを済ませ、写真撮影。その後、歩行を促される。歩く感覚について問われ、「歩いてはいるが、どこか面倒だと感じている」と答える。そのとき、自分が単に歩行という行為に対してではなく、より広い意味で生命活動全体に対して「煩わしさ」を感じているのではないか、という感覚が立ち上がる。

両足を肩幅に開き、左右に体重を移動させる単純な運動を行う。身体を観察の対象として扱う時間が、静かに始まる。

ベッドに移り、まずはうつ伏せの姿勢を取る。顔の向きを左右いずれかに固定しなければならず、頸部にわずかな負担が生じる。完全に快適とは言えない状態のまま始まるが、田畑さんがボールなどを用いて微細な調整を施し、その後しばらく時間が経過すると、身体は徐々にベッドへと沈み込み、接触面が拡張していく。最終的には、身体とベッドとの境界が曖昧になり、広がるように密着している感覚が現れた。

ここで「見守られている」と記述することはできるが、主観的にはそのような他者の存在感はほとんど知覚されていない。むしろ、私は完全に自らの身体感覚と、そこから派生する思考やイメージの流れの中に没入している。その流れがひと区切りを迎えた頃、適切なタイミングで「今、どのような感じですか」と問われる。この「区切り」の感覚と、田畑さんからの問いのタイミングが一致することに、説明しがたい不思議さがある。

続いて仰向けの姿勢へ。前回同様、各体位ごとに内的な「出来事」が立ち上がっては消えていくが、その内容はほとんど記憶に残らない。むしろ今回は、前回以上に忘却されている印象が強い。ただ、断片的な印象として、より振幅の大きい感情やイメージが生起していたように思われる。静かな状態と強い動きとが交互に現れ、そのダイナミクス自体が印象として残っている。そうした局面では、外部からの介入はほとんどなかった。

セッションの終盤、座位を取った際に明確な変化を感じた。「座っている」という事実が、これまでになく明瞭に知覚される。骨盤周辺に確かな支持があり、身体が自然に垂直方向へと組織化されている感覚があった。そこには不安定さや煩わしさはほとんどなく、むしろ安定と安心が伴っている。

その後の歩行においても、先に感じていた「面倒さ」は顕著には現れなかった。動くことに対する抵抗が、ある程度緩和されているように感じられる。

今回は「KOTSUBAN」という言葉がひとつの手がかりとして残った。解剖学的・構造的な理解は持ち合わせていないが、少なくとも経験として、腰部—骨盤周辺の安定性が質的に変化していることは明確であった。それは説明というよりも、身体そのものが示している事実として、確かにそこにあった。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(2/10)

代官山に予定より少し早く到着し、あてもなく周囲を歩いた。数度、同じ人物とすれ違う。その反復の中で、自分が「奇異な存在として見られているのではないか」という意識が立ち上がるのに気づく。それは一過的なものではなく、長く持続してきた感覚の再演であり、「周囲から逸脱した者として認識されたくない」という欲望に根ざしている。この傾向は私にとってひとつの課題であり、他者の視線から自由でありたいという希求と、いまだ緊張関係にある。

田畑さんの部屋に入ると、前回と同様に澄んだドアベルの音が響く。その音を境界として、日常的な空間から別の位相へと移行するような感覚がある。

廊下にはペンタゴンフロアマットが縦に配置されており、それらが連なって施術部屋へ誘われているよう。

着替えの後、写真撮影が行われる。私にとって撮影されるという行為は、いまだにどこか不快であり、自然に身を委ねることが難しい。その最中、「問題ありません」という態度を演じている自分に気づく。その演技が誰に向けられているのかは判然としない。ただ、自己と他者のあいだに仮構された視線を前提にした振る舞いであることだけは確かである。

指示に従い、歩行や腕の挙上を行う。自らを評価の対象として差し出すような感覚がありながら、それが奇妙に心地よい。能動性を一時的に手放し、観察される側に身を置くことは、どこか幼児的な状態への回帰を伴い、わずかな羞恥と同時に軽やかな解放感をもたらした。

ベッドに横たわり、側臥位で姿勢の調整を受ける。細部にわたり身体の位置を探り、わずかな違和感にも言葉を与えながら、最適と思われる配置を模索する。初めは「許容可能な位置」に留まっていたが、時間の経過とともに、下側の身体とベッドとが境界を失い、あたかも粘性をもつ物質同士が接触するように密着していく感覚が生じた。それに伴い、身体の重さが均質に広がり、弛緩が深まっていく。

反対側でも同様のプロセスを経るが、その間、意識は多層的に展開していた。具体的な内容はほとんど保持されていないが、現在抱えている問題や、ある人物への想念が浮かび上がり、ときに性的なニュアンスを帯び、それをさらに俯瞰する自己意識が羞恥を喚起する、といった循環があった。また、呼吸へと注意を戻す試みも断続的に行われていた。

身体感覚として特に印象的だったのは、足部、特に足趾の活動である。それは単なる運動というよりも、何らかの表出、あるいは発話に近い感覚として知覚された。言語化を試みると、その意味づけが過剰に固定され、経験の微細な差異が損なわれるように感じられる。むしろ、意味を持たないままに動き続けることによって、直接的に向き合うことを回避している感覚を、迂回的に保持しているようにも思われた。

仰臥位になると、腰部の浮遊感が際立ち、支持の不確かさが不安として立ち上がる。そのとき、幼少期にうつ伏せで寝かされていたという記憶が想起された。身体の前面に圧や重量がかかる状態のほうが、私にとっては安定をもたらすのではないかという仮説が浮かぶ。田畑さんは位置や距離を微調整しながら、しばらく静かに見守ってくれた。その後、身体の状態を問われ、改めて観察すると、先ほどまでの不安定さは消え、身体全体がベッドと連続しているような一体感があった。とりわけ手は、掌の向きすら判別できないほど、支持面と融合しているように感じられた。この状態においても、意識の内部では何らかの物語が展開していたが、その内容は想起できない。

起き上がり、ベッドに座る。直立的に座ることに慣れていないため、不安定さを覚える。右膝の向きをわずかに変えるよう指示を受け、その通りにすると、骨盤の支持が明確になり、座位が自然に成立する感覚があった。

再び歩行を試みるが、顕著な変化は認識できなかった。田畑さんは多くの問いを投げかけてくれるが、それに対して十分に応答できていない感覚がある。しかし、その不完全さをそのままにしておくことにも、ある種の許容が生まれている。歩きながら、室内に配置された複数のアート作品が視界に入り、関心を引かれるが、それについて言葉を発することにはためらいがあった。

施術後、事前と事後の写真を見せながら説明を受ける。その際、自分がそれらの視覚的な変化にほとんど関心を向けていないことに気づく。明確な効果や可視的な差異を求めているわけではない。むしろ私は、このロルフィングという経験そのものに身を置くこと、それ自体を目的としてここに来ているのではないか、そのような感覚が静かに立ち上がっていた。

セラピストHさんへのロルフィング10シリーズ(1/10)

・田畑さん、イールドを知った経緯。

イールドというワークを初めて知ったのは、ソマティックリソースラボに掲載されていたリンクからでした。女性が田畑さんに質問を重ねながら、イールドについて紹介していく動画を拝見したのがきっかけです。

わたしは昔から、謎なこと、どこか超現実的ともいえる感覚に惹かれるところがあります。ただし、どのような体験でもよいというわけではなく、自分なりに信頼がおけると感じられること、そして誠実さを感じられる相手であることが、とても大切でした。その意味で、動画越しに伝わってきた田畑さんの佇まいには、どこか静かな安心感のようなものを覚えたように思います。

・スタジオに入ったときの印象。

田畑さんのスタジオに入ってすぐ、ドアに小さな風鈴のようなものが掛けられていて、扉を開けた瞬間に、澄んだ音が鳴りました。その音が、不思議と印象に残っています。廊下には、いくつかの六角形の謎マットのようなものが整然と並んでいました。四つほどだったでしょうか。それが何を意味しているのかわからなくて、ニヤニヤしていました。

・始まった。

最初に、カウンセリングのような時間がありました。案内された椅子に腰かけると、それは半球のような形状をしていて、下にはバネが付いているのか、座ると自然に身体が揺れました。田畑さんによれば、ドイツのメーカーの椅子で、体幹でバランスをとる構造になっているとのことでした。スタジオには、ほかにも興味深いもの(テンセグリティのスカルプチャーなど)がいくつも置かれていましたが、その日は少し緊張していたこともあり、あまり質問はできませんでした。ただ、その空間全体が田畑さんなんだな〜って思っていました。

「今、どんな感じですか?」

セッションの最中、田畑さんから何度か「今、どんな感じですか?」と問いかけられました。そのたびに、わたしは言葉を探しあぐねていました。何が起きているのかを即座に説明できるような明確さはなく、かといって何も起きていないわけでもない。ただ、何かが微細に変化しているような気もする。けれど、その変化をどう名づければよいのかがわからない。

結局、そのときの困惑そのものを伝えたり、少し前の状態と比べて「さっきよりも…」といった相対的な表現で、違いの質感のようなものを、なんとか言葉にしようとしていたように思います。正確なやり取りは、正直なところあまり覚えていません。ただ、言葉にならないものと向き合う時間だった、という印象だけが残っています。

以前、「ひもトレ」とイールドの合同ワークショップで、一度だけデモンストレーションのモデルをさせていただいたことがあります。そのときは、何が起きているのかよくわからないまま、ただ「わからないこと」を楽しんでいる自分がいました。もともと、訳のわからないものに惹かれる性分もあり、とても楽しかったのを覚えています。けれど、今回の個人セッションでは、もう少し違った感覚がありました。何かが確かに起きていたような気がするのです。ただ、それを明確に説明するのはやはり難しい。そこで、感覚の近い体験をいくつか思い浮かべてみました。

・感覚の比喩

1. 保健室にいるような感覚

みんなが授業を受けている時間に、自分だけが保健室で養護の先生と静かに過ごしているような感じ。外では日常が流れているのに、わたしはそこから少し外れた場所で、時間の質が違う空間にいる。そんな感覚に近いものがあったように思います。

2. 喧騒から少し離れた場所

わたしは、大勢が集まるパーティーのような場で社交するのが、あまり得意ではありません。会場の喧騒から少し離れた喫煙所で、少人数で静かに過ごす時間や、メイン会場とは別の部屋でひっそりとくつろぐようなひとときに、どこか心地よさを感じます。

イールドのセッションにも、そうした「距離の取り方」に似た感覚があったように思います。何かから完全に離れるのではなく、しかし、べったりと巻き込まれるのでもない。そのあいだにある位置に身を置くような感じです。

3. 同じ部屋で、別々のことをしている

好きな人と同じ部屋で過ごしていながら、お互いに別々のことをしている時間。言葉を交わさなくても、同じ空間を共有しているという感覚だけで、十分に満たされるような状態。

セッション中の時間にも、どこかそれに似た静けさがありました。何かを積極的に「する」というよりも、ただ共に在ることの中で、微細な変化が起きていくような…。

これらの比喩は、イールドの施術を受けたときの感覚的な印象に、どこか似た質感を持っているように思います。ただ、それが何であったのかを、まだはっきりと言い切ることはできません。けれど、言葉にならないままの感覚を抱えながらも、その場に身をゆだねていた時間は、確かにわたしの中に何かを残しているようにも感じています。

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