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回を重ねて得られる体験

顧客を依存的に定期利用させる囲い込み的商法は、健全ではありませんが、クライアントが最終的に自力でバランスがとれるような手助けになるようなビジョンの下に、ある時期集中的にセッションを受ける必要性やタイミングはあると思います。

そして、回を重ねないと得られない深い体験も存在します。

以下、10回のロルフィングシリーズ終了後、月一回のペースでお越しになり、17回目にして、初めて感想をお寄せ頂いた内容です。ご本人も初めて素直に感想を伝える気になったので、随分心がゆるんできたとお感じになっているようです。


” 何となく意識が身体の中にようやく納まった感じがしています。
とても新鮮な感じでワクワクしています。
ひと昔前は肉体なんてなくて、意識だけだったら、もっと楽で楽しいのになぁって思っていたので、自分にとっては初めての感覚楽しんでます。
”  

感想全文

感じる、感覚についての用語 

「感じる」と日本語の言葉に対して、英語にはいろんな種類の感じるが存在する。身体の感覚を扱っているが、英語ではいろんなニュアンスを使い分ける単語が多いため、漠然としがちなので、一旦整理してみよう。日常会話的に用いられている意味とは別に、ソマティックプラクティスで用いられる場合の意味として捉えて下さい。

feeling : 主観的なからだの生理的な状態と密接に関係した「気分」「情動」のこと。

interoception : 内的感覚。からだの内側で起こっている反応を通じての感覚。

feelとは、このinteroceptionについて尋ねるときの言葉と思っていいでしょう。

それに対して、exteroceptionという言葉があります。

exteroception: 外受容と辞書にあります。外的な刺激に対しての感じ取り方。

sensation: 主に五感の感覚器の反応。その外部からの刺激の受け取り方。ただしその刺激が何であるかという認識までは含まない。その刺激をそう感じるところまでの段階。

したがって、exteroceptionについて、尋ねるときには、sensationを使います。

perception : 知覚・認識。sensationを通して得た情報を経験を通して解釈して、それが何であるかを認識すること。様々な外からの刺激があるが、それをどのように受け取っているか、掴んでいるかは、perceptionである。sensationがなければ、perceptionもないことになります。

これらを踏まえて、重要なのは、feelingやsensationを通して得られた情報をinteroceptionに落とし込むことです。様々な感覚を統合して認知する機能が脳にはありますが、その認知様式には、エラーも含まれていますが、ほぼ自動的に反応していしまいがちです。それらを大脳皮質の処理に任せっきりにしてしまうのではなく、その感覚を一旦、interoception特に内臓感覚で感じて、整合性を確認してみること。つまり、それが腑に落ちる感じにつながるのか、それとも、何か違和感として感じられるのか、行動を決める時の大きな指針になります。一般には、感覚→知覚→認知という作業は大脳の高次?の機能で統合されていることになっていますが、肚つまり内臓感覚がそこに関与しないのは経験的に違和感があります。

ですから、在り方としては、常に様々な刺激にオープンでいながらも、それらを内的な感覚で、主観的には自分がどう感じているのかを常に感じることを自分に許可しておくことが大切だと思います。いいものを見聞きして、美味しいものを食べるというような5感を刺激することは大切ですが、その刺激を自分の内側は主観的にどう感じているのか?言葉を換えればそれが、からだの声を聴くということにつながります。それをしない限り、情報や一般の評価に合わせた感じ方・捉え方になってしまい、本当は自分がどう感じているのかが、分からなくなってしまいます。それは主体性を放棄する第一歩です。大多数迎合の気運が高まる中、別に声を上げなくとも、自分が正しいという選択を静かにしているためにも、interoceptionを大切にすることには大きな意味があります。からだの声やサインを無視しなければ、いたずらに健康を害することはなくなるはずです。

ロルファー田畑浩良の私見と主観に基づいているので、ここで書かれてことを鵜呑みにせず、ご自分の身体感覚を通して、実験・体感して検証してみてください。

いくらトレーニングしてもできないこと

身体系のプラクティショナーにセッションをお願いするときに大切になるのは、技法やスキル以外にその前提として、触れられても大丈夫な感じがするのかどうか、相性ともいえるが、理由がはっきりしているわけではない感覚。施術される場所に抵抗なく、気が向くのか、向かないか、そのプラクティショナーに自然に身体が向くのか、それとも向かないのかは、頭ではないあくまで肚の感覚である。それが一番確かなのだ。

触れられることに、敏感なタイプがいる。身体について感受性がある程度育っていると、プラクティショナーの思惑や圧迫感、こうあるべき、という意図が強すぎる場合、それを感知した身体は何かしら警戒モードにスイッチが入る。クライアントの方から耳にする少なくない声として、マッサージや治療院にいって雑に扱われたことが、いかに自分にダメージを与えていたか。ロルフィングのシリーズ途中でそのことに気づくクライアントもいる。雑だなあとどこかで分かっていても、さもそれが受け手側に問題があるかのように錯覚しがちだが、受ける側に問題があるのではなく、プラクティショナー側の声なき雑音やこうなって欲しい、こうあるべきという圧力・思い込みが強すぎるのである。

認定トレーニングをしていると、ロルファーの中にもかなりタッチに対して敏感なタイプが存在する(私も含めて)。実習中、交換セッションする際に、組合せがうまくいっていないと、稀に受け手として、タッチを含む介入を一切受け付けないシャットダウンした状況になることがある。欧州ではこれをCookingと呼んでいるそうだ。呼称が存在するということは、それ程珍しいということではないのだろう。セッションを成功させるには、Cookingはできれば経由せずに進みたいところであるが、このCookingを誘発しやすいか、誘発しにくいのかは、決して上級トレーニングを終えたかどうか?とか、ソマティック・エクスペリエンスを学んでいるかどうか?は実際のところ関係ないようだ。訓練では培えない部分なのだ。

だが一方で、このCookingを誘発しにくいタッチを持つロルファーは何人か知っている。その一人は、福岡でプラクティスされている串崎昌彦さんである。彼はこれまでの日本のロルファーにあまり見ないタイプのユニークな人材である。受け手として触れさせてもいいロルファーがかなり限定される相手であっても、彼のタッチは、Cookingを誘発しないことを、数回の認定クラスで観察してきた。

彼はロルフィングのキャリアとして経験年数が長いわけでもないが、彼のタッチは特A級に安全なのだ。それがどこに起因するのか、不思議であるが、考えてみれば触れるという動作は、トレーニングが終わってから始めたわけではなく、それまで、どう手を通して、世界を感じてきたのか、という長いスパンで培われてきたものであるから、ロルファーとしてのキャリア以前の生き様が関係しているに違いない。これが不思議なことに長年ソマティック・エクスペリエンスを実践してきたセラピストの方や、10年以上のロルフィングのキャリアがあっても、Cookingを誘発してしまった例を何度か目にしたり耳にした。我々が、セッションする時のコミュニケーションは、表面のやり取りからは見えない意識下のところで進行しているというが、それは一見したところではわからないようだ。

なので、受け手として、そのプラクティショナーの華々しい経歴や資格とは関係なく、タッチや間合いを身体が安全でないと感じたのであれば、そこは無理をせず、苦手克服の視点ではなく、思い切ってプラクティショナーを代える選択をした方がいい、ということになる。

こういう私もかなりタッチの安全さには自信があるのだが、今まで一人だけ、Cookingを誘発してしまったクライアントがいる。ロルフィングの10シリーズの時には問題なかったのだが、Somatic Experiencingのセッションで頭をタッチしている時にそれが起きた。セッションの性質によるものか、触れた場所に対して、タイトレーションができていなかったのかもしれない。このCooking現象に関しては、欧州の講師らとも交流することでより学んでいきたいと思う。

最近、10シリーズを別のところで終えた後、すぐ10シリーズを受け直したいという方がいらしているので、ロルファー田畑浩良の私見と主観から、相性問題、安全なタッチを考察してみました。

追記:今年の春のロルフムーブメント認定ワークショップに参加頂いた、大坂でプラクティスされている佐藤正治さん、名古屋の茂利尚子さん、東京の楠美奈生さん、大久保圭祐さんもかなりいい安全なタッチを持っています。

交通事故の体験

歩行中よそ見運転の車に追突され、身体からちょっと出たことがある。今から42年前、中学3年の7月31日だった。
追突され宙にに舞ったらしいが、その時できすぎなくらいよくできた画面のスクリーンメモリーもちょっとだけ見た。走馬灯を生まれるまで眺めたら、多分戻って来られないのだろう。

身体と自分が完全に分離して、遠くで身体が口を通して実際に「痛いよ〜、痛いよ〜」と叫んでいたのだが、自分の意識は別のところからそれを聞いていた。

“自分の意識”が身体の中にふと戻ると、全く痛みは感じず、強打した大腿部は麻痺して動かなかった。右手に二カ所かすり傷があって、出血していたけど、その痛みは不思議なくらい感じなかった。

なんで身体は痛がっていたのに、離れていた”自分”は痛くないのか気味が悪かった。次の日出場予定の卓球の県大会に行けそうなくらい気持ちはケロッとしていたけど、左脚は全く動かなかった。身体の自分と意識の自分はどちらも自分だけど、それぞれ完全に別だった。

そこから、身体のバランスを意識するようになった。ロルファーになる最初の大きなきっかけになった出来事だった。

お問合せ頂いた質問:ロルファー変えた方がいいですか?

Rolfing(ロルフィング)は人と人とのやり取り。ロルフィングという技法 x 受け手との反応ではなく、ロルファー x 受け手の固有の反応です。しかもタッチによる入力は、視覚や聴覚より、想像を越えてかなり情報量が多いです。しかも受け手としては無防備になるわけで、施術者自身がバンダリー(境界)がしっかりしていて、中立でないといけないので、ロルファーなら誰でもいいってことはありえません。

私自身他者から施術やセッションを受けるときには、かなり慎重です。海外の旅行先で受けた無理矢理おばちゃんの施術で肩を壊したこともありますし、他人の紹介で受けた霊的なカウンセリングが的外れのネガティブセッションだったり。。。そうしたものは時間とお金の無駄というだけでなく、後でそのフォローのための別のちゃんとしたセッションを受け直す手間があって益々面倒だったりします。そういうことにあまり影響されない人が多いことも知っていますが、だからといって自分が大多数に合わせる必要もないし、脱個性化するのは、自分の目指すところとは別方向です。

実際に私のところにお越しになるクライアントの方は、県外からの方の方が多く、他で受けたけれども、ロルフィングを受け直す方も稀にいらっしゃいます。それらの方々の多くは、感覚やエネルギーに敏感な方で繊細なワークを好む場合が多いように感じます。

セッションが成功するための三つの要素は、1.施術方法が適正かどうか?2.施術者のスキルが十分かどうか?3.受け手のスキル、です。この3つのバランスが大切で、敏感な方というのは、感覚が様々なところに細かく行き届かせることができるので、そのスキルに2の施術者のスキルが追いついていないとすると、セッションが雑に感じてしまうのです。比率でいうと大多数ではないのですが、まずその感覚を尊重してほしいのと、その場合は思い切って、ロルファーを変えて心機一転する方がいいと思います。セッション前後の写真で判断すると変化は確認できるけど、その変化を自覚するところまで実感できない場合、そしてロルファーに対してよほど印象が悪くなければ、そのまま変えずに続けていいと思います。

声のパフォーマンス

身体を楽器に例えると、全体がよく響く方がいい。ロルフムーブメントの観点からは、身体にはいくつかの振動板〜ダイアフラム※構造がある。骨盤底や横隔膜もそれらの一つである。足底も含めて、ダイアフラム同士がよく響き合う状態をロルフムーブメントでは引き出す。それによって声のパフォーマンスが変わることはよく観察される。一方、水平面の共振はしばし注目されるが、垂直面の構造にも当然のことながら重要である。立位での位置関係になるが、上肢と下肢の骨間膜、胸郭内の縦隔、頭部の大脳鎌などの垂直面の振動板として捉えることができるので、これらの共鳴を引き出すと、さらに声のパフォーマンスが変化する。

しかしながら、実際に声を出す段階になると、さまざまな緊張のパターンが邪魔してパフォーマンスを上げる障害になる。たとえば、声を出そうとするあまり、喉や胸郭上腔をぎゅっと狭めてしまうパターンがあると、どんどん声帯に負担がかかってしまう。いかに空間を狭めず空気の通りを妨げないように響かせるかがポイントになってくる。

からだの内側での共鳴だけでは、実は足りない。周囲の空間に響かせる必要がある。そうなると、空間との関係性が鍵になってくる。スピーカー自体の性能がよくても、部屋の構造とその配置が大切なのと同じである。

声といっても、様々な音域があるので、響かせやすい音域がそれぞれ異なる。声というと声の出し方に注意がいきやすいが、声帯を通して、身体のどのダイアフラムと共振させて、空間にそれを響かせていくか、といういくつかの段階がある。「声を出す」と聞くと、出力の一方向性が強調されるが、響くためには、振動板間、からだと空間との間の双方向の共振が含まれることにきがついていると、それだけで声についての捉え方、響かせ方が変わってくる。

声のパフォーマンスを上げようとするとき、どの段階がネックになっているのか、どの振動板の共振がイマイチなのか?その制限のパターンがどこから生じるのか?見極める必要がある。

※ダイアフラム:ロルフムーブメントでは、身体内の空間を仕切る水平膜として機能する構造を指す。口腔底、骨盤底、足底などが含まれる。音響学では、振動板と訳されている。

ココロのバランスボード

ヒモトレ発案者小関勲さんのところで開発されたココロのバランスボードを最近使い始めた。クライアントの方で、立位や歩行が困難な体幹性のジストニアと診断された方に、セッションの後このボードに乗ってもらった。すると、理由はわからないが、安定感が得られるという。普段立つことに支障がない人間にとっては、すごく大きな差としては感じにくいかもしれないが、こうした体幹を支えるのが困難な方にとってはその差も大きく感じられるのだろう。

自分がこのボードに乗ってみると、足元・床に対しての信頼感が増す。この感じは、例えば即効的にどこかの緊張や痛みがすぐさま消えるというような急激な変化ではない。今ある状態でそこそこうまくいっているとさらにちょっとだけその質が変わることに、ヒトはその変化を感じ取りにくい。しかし、身体感覚がある程度育っている人間なら、その違いを感じ取れるだろう。

身体感覚がまだ育っていない場合でも、それを毎日ちょっとづつ継続してボードにのってみる。すると、小さな変化が積み重なって、やがて自覚できるレベルまで違いがでてくるに違いない。

理由はともあれ、なんだかココロのバランスボードにのると安心する。地面に対してより親和性が増すということである。それは、ロルフィングが目指していること、重力との調和に向かうことに他ならない。シンプルにのるという動作だけで、安心するという感覚につながれるということには大きな意味がある。

セッションの後に、何か気をつけることとか、した方がいいことはあるか?とよくクライアントの方に尋ねられる。注意しなげればならないのは、役に立たないアドバイス – 身体にとって決してプラスになっていない情報で、頭が一杯になっている例は少なくない。そういう場合は、あえて、何かこれまで課してきたこと、腑に落ちたわけではないけど鵜呑みにしてどこかで仕入れたことをとりあえず、「やめてみる」ことにむしろ意味がある。ジャンクなアプリをスマホから削除するように。 一方、このバランスボードにのるという行為は、実のところ本人の身体に役立っていない”何か”を過剰にやり過ぎて混乱している状況から、一旦離れる手助けをしてくれる。

ボードの説明を読むと、なでしこジャパンなど一流の選手がこのボードを利用しているという。彼等は、インスタントで意味のないものに時間を割くヒマはないので、本当に意味のあることであれば、地道にそれを採用する。そうしたスタンスの人々に支持されていることにはきちんとした理由がある。

ロルフィングのセッション後、家で何かできることの一つに、「ココロのバランスボードに毎日乗ってみる。」ことをお勧めしたい。


セッションを成功させる3要素

みなさんは、施術者の腕さえよければ、いい結果が必ずでると思い違いしてませんか? そもそも変化の主体が受け手にあるとすれば、必ず腰痛が治る!とか、いうキャッチーな宣伝はうまく行くケースがあるのは否定しませんが、どのような症状であれ、何かが100%治るというふれ込みはまず嘘とおもっていいでしょう。

では、セッションを成功させるために必要な条件は何かというと、

  1. 技法の種類が合っているかどうか?
  2. プラクティショナーの技量
  3. 受け手のスキル・力量

 これらの3要素がうまくかみ合った時にセッションが実りあるものになります。

どんなに経験を積んだ優れたプラクティショナーあっても、受け手がそれを受け取って変化しようという姿勢と器がなければ、うまく変化を引き出すことはできません。また、選んだ技法より、別の受け手に合った方法があるかもしれません。その時その時にちょうどいい組合せとタイミングがあります。

すごく繊細なワークをするadvanced Rolferより、BasicなRolfingの方がうまくはまる場合もあるでしょう。一方、繊細なタッチでなければ、 深い変化を引き出せないケースもあるはずです。

あなたの今のタイミングで出会うべき技法と施術者は、食べログの口コミ評価を見てお店にいくような決め方ではうまく行かないでしょう。或いは、自分の勘に頼らず、並んでいるという理由だけで、そのお店に行くような選び方。からだを預けるわけですから、からだの感覚が一番頼りになります。(すべてに言えるけど、楽しい仲間とであれば外れや失敗もまた楽しいですが。。)

頭や出回っている情報からではなく、あなたのからだが、向く方はどこか、感覚を使い始めましょう。そこから、すでにセッションは始まっています。

変化を引き出すということ

セッションの介入は、やり過ぎはよくないのは何となくわかる。薬は合っていても、過剰になると、かえって害になるのと同じ理屈だ。かといって、「手を抜く」というのも適切とはいえない。もうちょっとだけ一手間かけていれば、味がしまる、ということもあるだろう。

一方、からだは生きもので、常に応答する力があるとするなら、詰めすぎる、完璧に仕上げるような意図だと、からだが自力でなんとか最後の調整する機会と空間を奪ってしまうリスクがある。

なので、手を抜いているわけではないけれども、からだに変化してもらう部分を尊重しているのが、イールドワークともいえる。Rolf Instituteの機関誌のインタビュー記事でKathyが書いてくれたことを、別のクライアントの方が同じことをいっている。

初めて受けた田畑さんのセッションはある意味、驚きました。というのは、本当に、触れたかどうかの距離感というか、触れ方が何か物足りなさを感じるんだけれども、それを充足させようと、今度は自分の内側からそれを補おうというものが引き出されているものを感じたからです。”

私のパートナーも外国人でロルフィング をアメリカで受けているのですが、今回、私がロルフィング を受けてから、さらに、何か間合いが以前より取りやすくなっているように思いました。”

“体の内側だけでなく、外の世界でも、不思議となにか、気づくようになったからなのか、自分が欲しい情報を心の中で思っているとそれに関したことが、いろいろと起きたり、出会いがあったり、シンクロが起きやすい状況になっています。”

間合い;空間との関係性をワークの中で扱っていることが反映しているのかもしれない。

パターン化しない

生体は、からだの内側の環境を常に一定に保とうとするホメオスタシスが備わっている。急激な外側の変化にも適応するためである。だから、外からの入力が継続して入ってくるのがパターン化すると、それで一つの平衡状態ができる。例えば、あるサプリや薬を常用するということになると、それがない状態でからだが何とかする力を削いでしまう可能性がある。薬だといよいよそれがないと生命状態が危険になるレベルで使うケースから、とりあえず緊急なのでその場を凌ぐために、使うやり方、そもそも弱い気質や傾向があるので、それに合わせてマイルドに補う漢方のような使い方もあるし、本当は必要ないけど、何となく不安だったり、宣伝で煽られているいるから摂る使い方まで、様々なケースがあるだろう。

外からの入力に対して、それに慣れてしまう(馴化)と、元々からだの方で代謝したり、あるいは自力でまかなえる部分を怠けさせてしまうリスクがある。

その見極めが肝腎だと思うが、からだとしては本当は必要としていないけど、例えば、何かものが入ってくると代謝や解毒しなければならなかったり、自分が作れる栄養素を作らなくていいと判断してしまう。

最近、ずっと続いていた自家製ヨーグルトや、発芽玄米を常食するのを止めてみた。お腹の調子は結構よかったのだが、何かパターン化してきたので、何かが不味いような感覚があった。食物繊維もほどほど必要だったり、腸内菌叢も大切だけど、本来、腸の正常な蠕動運動があれば、出るものは出せるはずだし、腸内にはそもそも自生している菌がいるのと、いつも他人の腸で定住していた菌がやすやすと新しい場所で定着するのもおかしい。結果何となく体調はいい。思い返すとヨーグルトも多分食べ過ぎだったような気がする。

いろんな多様なものがからだに入ってきて、それをちょっとだけがんばりながら、かみ砕いて、消化して、「何とかやっていく力」を発揮できるうちは、その力をギリギリまで怠けさせないようにした方がいいような気がする。

最高のサプリにいきついた方々には申し訳ないが、パターン化しない方がいいと思う。