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パターン化しない

生体は、からだの内側の環境を常に一定に保とうとするホメオスタシスが備わっている。急激な外側の変化にも適応するためである。だから、外からの入力が継続して入ってくるのがパターン化すると、それで一つの平衡状態ができる。例えば、あるサプリや薬を常用するということになると、それがない状態でからだが何とかする力を削いでしまう可能性がある。薬だといよいよそれがないと生命状態が危険になるレベルで使うケースから、とりあえず緊急なのでその場を凌ぐために、使うやり方、そもそも弱い気質や傾向があるので、それに合わせてマイルドに補う漢方のような使い方もあるし、本当は必要ないけど、何となく不安だったり、宣伝で煽られているいるから摂る使い方まで、様々なケースがあるだろう。

外からの入力に対して、それに慣れてしまう(馴化)と、元々からだの方で代謝したり、あるいは自力でまかなえる部分を怠けさせてしまうリスクがある。

その見極めが肝腎だと思うが、からだとしては本当は必要としていないけど、例えば、何かものが入ってくると代謝や解毒しなければならなかったり、自分が作れる栄養素を作らなくていいと判断してしまう。

最近、ずっと続いていた自家製ヨーグルトや、発芽玄米を常食するのを止めてみた。お腹の調子は結構よかったのだが、何かパターン化してきたので、何かが不味いような感覚があった。食物繊維もほどほど必要だったり、腸内菌叢も大切だけど、本来、腸の正常な蠕動運動があれば、出るものは出せるはずだし、腸内にはそもそも自生している菌がいるのと、いつも他人の腸で定住していた菌がやすやすと新しい場所で定着するのもおかしい。結果何となく体調はいい。思い返すとヨーグルトも多分食べ過ぎだったような気がする。

いろんな多様なものがからだに入ってきて、それをちょっとだけがんばりながら、かみ砕いて、消化して、「何とかやっていく力」を発揮できるうちは、その力をギリギリまで怠けさせないようにした方がいいような気がする。

最高のサプリにいきついた方々には申し訳ないが、パターン化しない方がいいと思う。

痛みに対して敏感でいたい

安田登さんの新刊「すごい論語」を読んで、痛みに対しては鈍感にならずにいたい、と改めて思った。痛みを無視しようと、ないものにしたいという考えの先には、痛みの感覚を遮断する、神経ブロックあるいは鎮痛剤の服用という方法。あまりに痛みが大きい場合には一時回避は時と場合により必要かもしれないが、適切な量と服用のタイミング、そして、薬剤に依存しないための、自覚的な使い方が大切だと思う。

痛みを感じないようにするやり方は、大きく分けて、1)痛みを感じないように感覚を麻痺させる、2) 痛みに対して、寛容になるように条件付けする、 3)痛みを生じさせている要因に働きかける、の3つである。

1)はあくまで一時凌ぎか、レスキュー的に。2)の寛容は、ある感覚に慣れさせてしまう脱感作のやり方。鼻がある匂いに慣れて、匂わなくなるのに似ている。1)、2)に対して、3)のやり方は、痛みという感覚はそのまま、感度も落とさずに、痛みというサイン、つまりその負担が減るように働きかけるやり方。

例えば、家の中が臭う。が、臭いの元がどこにあるかわからない。探すのが面倒なので、とりあえず手もとにあったマスクをしてみる、それでも臭いから鼻栓をしてみる。これが1)の方法。次に、だんだん鼻が慣れてきて、それ程気にならなくなるから、まあいいっかという気持ちでそのまま過ごす。これが2)の方法。でもこの2つのやり方だと、部屋に誰か来たら一発で不味いことが起きているってわかるっす。そこで、何が臭っているのか、どこにあるのか探して、それを部屋から外に出す。すると当然の結果として、部屋は本当の意味で臭くなくなります。これが、3)のやり方になります。だから、2)のそれに慣れてしまって「寛容」になるっていうのは、その部屋の主として自分だけの世界ならごまかせるんだけど、そもそもの臭いの元がなくなたわけではないので、客観的に観ると、決していい状態ではないわけです。

寛容になったところで、腐った本体はあるわけだから、部屋の主が気にならないとしても、腐敗したガスが肺に入ってきたり、菌が繁殖することで、感染のリスクが高まってかもしれない。だから、あるものをないように感じているだけで、根本の状況は変わっていないことになります。

痛みに例えると、痛みをサインとして、その要因を探し出して、根本を変えない限り、からだは納得できない。よりよい状態に移りたいがためのサインとして捉えない限り、痛みは面倒な感覚で邪魔者扱いされるかもしれません。それでは、痛みが浮かばれないし、サインを出している本来の意味が汲み取られないことになります。

だから痛みに関しては、その感度を落とさずに尊重して、それを生み出している要因を変えるような働きかけ、大抵の場合、痛みの箇所とは別のところに位置していることが多いですが、痛みを押さえ込んだり、その感じ方を鈍感にするような働きかけは、根本解決とはいえず、注意が必要なことは間違いないと思います。

※そうやって考えると、寛容とか馴化というのは、それ以上変わらない環境に対する生物の適応力を利用しているだけで、何か他に打開策はあるのかも?という気がしてきました。

目指すところ

セッションで最終的に目指しているのはどのような状態でしょうか?

常に何処かの治療院やマッサージに週末駆け込むような生活を送っている方がいるとすると、とりあえず、通わなくてもやっていける自律的なバランス。

依存あるいは習慣的に通うのではなく、必要と感じた時には、他者の助けを借りて、微調整によってリセットできる状態が健全と考えています。ストレスや負荷がかかったとしても、一晩でリセットできる状態で、別の見方をすれば、トラウマのエネルギーや迷走電流が溜まりにくい、流れのいい身体です。

どんな優れた治療方法であれ、その治療体系に一旦はまってしまうと、頻繁に通ってバランスするという”習慣”ができてしまい、そのパターンでの平衡が保たれると、身体もそれに甘んじてしまい、本来自力で排出できる能力を怠けさせて、その力を奪うことになります。

どんな形であっても、パターン化、習慣化するということは、施術側のビジネス的囲い込みは成功しても、主体は自由を制限されることになります。

身体は、高度に統合がされればされるほど、強い圧力や痛みは過度の刺激となってしまい、身体はより繊細で精妙な刺激を求めるようになります。いい施術を受けたら、以前の雑な施術には戻りたくないし、より乗り心地のいい車を求めるのと同じです。必要最小限の介入に十分に反応して自己組織化を発揮できる状態、それが目指すところです。このレベルになると、むしろ過度の介入は害となり、かえって統合感が薄れ、バランスが悪くなりように感じますが、それは正常な反応といえます。

適切で繊細な介入によって、肉体を越えた深いレベルでの変容や気づき、解放もしばし起こるようになるため、セッションがより特別な意味を持つようになります。

臍帯の重要性

お腹がポコンと出ていて、背中が反っている身体のパターンをたまに見かけます。背中が反っていると腰椎を圧迫するため、慢性的な緊張を生じやすい。背中を反らせるように習い事や教育的指導をうけているケースもありますし、自分の真っ直ぐというズレた思い込みが影響している場合もあります。

それ以外に、出産時に臍帯を通して衝撃をうけたかも?しれないケースがあります。衝撃を受けると何かしら、フリーズしてあるパターンをホールドするようになります。これを恩師のCarol Agneessensは、umbilical shockと呼んでいました。

胎児は、臍帯を通して、栄養や酸素、老廃物の排出など生命維持に関して母胎の助けを受けとりながら生き延びているわけで、それを子宮から出た途端に何の準備もなく、すべて自分でやらなければならないわけですから、それは一大事です。酸素呼吸を開始しても、排出や代謝系もすべて一変に移行するのは、あまりに一度にやり過ぎかもしれません。自然指向の分娩だと、臍の緒を切るタイミングもゆっくり時間がとれて、それなりにある程度は準備ができるかもしれません。

それができないとなると、想像ですが、臍帯とつながりの深い場所にショックが残る可能性は十分考えられます。影響を受ける場所として、消化器系、腎臓、泌尿器・生殖器系も含まれます。

それぞれの重要性は割愛するとして、腎臓は特に老廃物の濾過という生理学的機能、赤血球造血因子の産生以外にも東洋医学でとても重要視されます。アタッチメント(愛着)と深い関わりがあるという身体心理学的な解釈もあるようです。

じゃあ、どう扱うのかということになりますが、安全に扱うには、まずその周辺の空間を与えることです。それには、ロルフィングで重要視されるQL-腰方形筋が十分な長さがあること、12番目の肋骨が自由であることが上げられます。

十分な空間が確保されていない段階で、腎臓自体の動きを急に活性化させられると、狭い空間で平衡状態を保っていた均衡が突然崩れることになります。内臓にワークするときに注意しなければならないのは、その動きがでてきたときに対応できるスペースがあるかどうか、です。

タッチするというのは予想以上に相当な情報量を伴う介入なので、何の準備もなくエントリーレベルで腎臓を扱われて、相当ダメージを食らってしまう深刻なケースも実際にあります。その場合はセッションによるトラウマ化で問題作りにお金と時間を浪費したようなものです。

そもそもを辿って、臍帯を通して受けたショックが制限の上流にあるとするなら、臍帯を通して、安全な感覚を取り戻す必要があります。

臍帯を扱うワークは相当繊細なので、まず内臓のコンテイナー(器)を支える身体構造がしっかり整っていることが前提で、それによって身体の適応性が確保され、その上で、臍帯や腎臓を扱う準備がやっとできるわけです。

それにはある程度、胎生学的なアプローチの経験と実績が必要だと思います。