月別アーカイブ: 2020年7月

感染したとしても、重症化するかどうかが、問題だ

政治的には、ロックダウンした意味が全くなかったことを曖昧にしたいのか、「夜の街」を標的にして、測定数を上げることで、感染者数を稼ぎたいようにみえる。

東大の児玉教授による研究結果:ノイズを拾わない精密度の高い抗体検査だと、市販のキットより感染自体が少なく、東アジア地域では広範囲に既知のコロナウイルスに既に罹っている可能性が高い、という知見から、日本人は、仮に新型コロナウイルスに感染しても、重症化率や死亡率は低いので、欧米で取られているような過剰な自粛や政策は必要ない、という結論にいくのではないかと、推測していた。しかしながら、児玉教授の最近の国会答弁や意見を見ると、その方向性ではなく、警戒を一層高める必要有りと考えているようだ。

私としては、さして重症化しないような「風邪」を敢えて、指定感染症に設定できるのか?そこから甚だ疑問を感じている。早急に感染症の指定を解除して、インフルエンザや他の肺炎と同様の医療処置に戻すことが、医療現場や社会経済を復帰させるためのシンプルな解決策だと思っている。

検査を増やせば、当然感染者数は上がる。武田邦彦先生のブログでは、重症化数は7月に入って、より減少傾向にあるという。

結局のところ、検査を受けたりワクチンに幻想を抱くのではなく、大切なことは、自前の自然免疫を維持することしかない。

国際医療福祉大学の高橋泰教授が、とても参考にすべき記事を書かれています。

https://toyokeizai.net/articles/-/363402?page=3

科学のいいところ

科学者は通常、データを元に考察してディスカッションする。科学の前では、研究者は平等である。そこが科学の素晴らしいところです。NIHのギャロ博士の研究室に留学した古巣の研究所の先輩がいっていたが、ボスの言ったことに間違いがあるとためらいなく、ラボのメンバーがすかさず訂正していたという。ボスであるギャロも面子を気にすることなく、フラットに接していた様子が印象的だったという。

一方、科学的思考の前では、立場に関係なく、平等にディスカッションされるべきであるという理想とは別に、日本の会社の古い体質、取引先との関係性など、実際には様々な事情が存在する。

あるとき、前の会社の先輩Oさんが、某大学医学部の教授と研究開発会議の席で、教授の考えに異を唱え、「そんなことやっても無駄ですよ!」と正直に意見した。それを当時の研究所所長が慌てて、先輩に注意したことがあったそうである。けれども、科学的思考から、納得できないような意見を鵜呑みにして従ってしまうと、結局そのツケとして、彼の部下がしょうもない実験=無駄な時間と労力を強いられることになるわけで、そこはハーバード大学に留学して科学的思考をトレーニングされたOさんが、妥協できるわけがない。

立場に関係なく、平等にディスカッションする、それが科学のすばらしいところだと思う。

科学は思考停止を嫌う。権威がある科学者の意見だから、賞をもらった研究者だから、あるいは、インパクト指数が高い論文に掲載された内容だから、政府がそういっているから、NHKがそういっているから、などなど、それらは、科学的に正しいかどうか?ということとは、全く関係が無い。

科学は、まず疑う。陳腐なスピリチュアルやポジティブ思考は、疑わず腑に落ちてないのに鵜呑みにしてしまう。疑って、自分で検証する地道な作業から、定説を覆す発見が生まれる。そのためには、よく一つ一つデータを観察することだ。

感染者の数字を見るとき、母集団としてどんな集団を対象に、どのような特異性と感度を持ったどんな検査方法を用いて、どれだけの数を検査したのか? それによって、その数値の意味が違ってくる。それらを出さずに数字だけ示すと、意図した側に都合のいい印象を与えることができる。

ロックダウンは全く意味がなかったという結論に対する、十分な反論もないまま、何となく感染者数増大の数字だけ放送されて、何となく恐怖が煽られて、外出も控えたままだったり、びくついている受験生もいるという。

そんなとき、宮沢孝幸先生と武田邦彦先生の対談、ためになります。科学者、研究者はこうでないといけないと思います。