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rolfinger について

米国Rolf Institute認定ロルファー&ロルフムーブメントプラクティショナー。

お問合せ頂いた質問:ロルファー変えた方がいいですか?

Rolfing(ロルフィング)は人と人とのやり取り。ロルフィングという技法 x 受け手との反応ではなく、ロルファー x 受け手の固有の反応です。しかもタッチによる入力は、視覚や聴覚より、想像を越えてかなり情報量が多いです。しかも受け手としては無防備になるわけで、施術者自身がバンダリー(境界)がしっかりしていて、中立でないといけないので、ロルファーなら誰でもいいってことはありえません。

私自身他者から施術やセッションを受けるときには、かなり慎重です。海外の旅行先で受けた無理矢理おばちゃんの施術で肩を壊したこともありますし、他人の紹介で受けた霊的なカウンセリングが的外れのネガティブセッションだったり。。。そうしたものは時間とお金の無駄というだけでなく、後でそのフォローのための別のちゃんとしたセッションを受け直す手間があって益々面倒だったりします。そういうことにあまり影響されない人が多いことも知っていますが、だからといって自分が大多数に合わせる必要もないし、脱個性化するのは、自分の目指すところとは別方向です。

実際に私のところにお越しになるクライアントの方は、県外からの方の方が多く、他で受けたけれども、ロルフィングを受け直す方も稀にいらっしゃいます。それらの方々の多くは、感覚やエネルギーに敏感な方で繊細なワークを好む場合が多いように感じます。

セッションが成功するための三つの要素は、1.施術方法が適正かどうか?2.施術者のスキルが十分かどうか?3.受け手のスキル、です。この3つのバランスが大切で、敏感な方というのは、感覚が様々なところに細かく行き届かせることができるので、そのスキルに2の施術者のスキルが追いついていないとすると、セッションが雑に感じてしまうのです。比率でいうと大多数ではないのですが、まずその感覚を尊重してほしいのと、その場合は思い切って、ロルファーを変えて心機一転する方がいいと思います。セッション前後の写真で判断すると変化は確認できるけど、その変化を自覚するところまで実感できない場合、そしてロルファーに対してよほど印象が悪くなければ、そのまま変えずに続けていいと思います。

私のRolfing®(ロルフィング®)の視点

いくつかのモジュールに分ける

 他人任せではなく、自力で何とかバランスできる身体を取り戻すには、土台をしっかり築く必要があり、それなりのプロセスが必要です。基本的には建物と一緒で、土台である足から順番に積み上げていくことで高い統合状態を引き出すことができます。私の観点と解釈でいうと次のようなモジュールに分けられます。統合が進まない場合は、前の段階が満たされているかどうか?総合的にみていく必要があります。

1st モジュール:骨盤をしっかり支えられる脚・足のサポートを充実させる。

背面、前面。側面(外側・内側)の支えを扱います。

下部2軸の充実

2nd モジュール:内臓の容れ物としての骨盤をしっかりさせる

骨盤を多方向から働きかけます。

上部2軸の充実

3rd モジュール:骨盤の中身、内臓空間

下部内臓の流動性と連続性。

2軸の連続性

4th モジュール:骨盤の上に頭がのるように

上部内臓の流動性と連続性。

2軸の接合線としての正中線が現れるのを待つ

5th モジュール:全体の連続性

全体性

2軸の分化と3軸の統合

ココロのバランスボード (その2)

小関勲さんの開発したココロのバランスボードにのっていて、急に思い出したことがある。それは、かつて酷い左膝の痛みに悩まされていたこと。

中学3年の夏に歩行中自家用車にはねられた影響で、事故後数ヶ月経ってから、左膝に体重をかけると、膝が抜けるような感覚と共に、激痛が走るようになった。うかつに体重をかけるととんでもないことになることにビクついて、恐る恐るしか歩けなくなった時期が暫く続いた。数年後膝が痛くなくなった後、暫くして今度は腰に負担がくるようになって、年に一度くらいの頻度でギックリ腰が起きるようになった。それからは、ロルフィングを受けたりいろんなことをしているうちにギックリ腰からも解放され、しばらく膝のことは忘れていた。

昨日、ココロのバランスボードにのっている時に、ふとその記憶が蘇った。膝で悩まれたことのある方にはお分かりと思うが、違和感が断続的にある上に、膝への体重の乗せ方によって突然、電気ショックのような激痛が膝にやってくる。それがいつ来るのか読めないために、常にどこか構えたように立っていたことが思い出された。

そこで、ココロのバランスボードにのりながら、ゆっくり左の膝に体重をかけてみた。すると、左膝の内側には負荷がかかるのに対して、外側にはあまりかけようとしない癖・パターンがあることに気がつく。これは注意深く感じないと見逃してしまうレベルで、それまでのパターンと違う外側に荷重をかけようするとわずかに不安定になる。そこで少しだけ左膝の中央寄りに荷重がかかるようにバランスをシフトしてみる。すると、腰椎のあたりが反応する。おそらく、当時膝のサポートが足りないところを腰椎側が担っていたのかもしれない。その位置のままじっとしていると、膝の力がふっと抜けて、腰椎の微かな違和感も消えた。歩いてみると、膝が軽く出やすくなっている。しばらくじわっとした左膝にかすかな違和感と四頭筋の筋緊張が少し変わっている。膝をつなぐ筋肉の使い方・状態が変化したということだろう。

しばらく、この状態を観察しようと思って、外を歩いてみたところ、右膝にちょっとした違和感を感じた。戻って再びココロのバランスボードにのってみる。こんどは右の膝に今までより内側に荷重がかかっていることに気づく。ボード上でゆっくり荷重を中央寄りにシフトさせたと同時に鼻中隔の内側で、ぴきっと小さな音がして、全体がすっと落ち着いた。

まるで短いムーブメントセッションを受けたようで、足・脚の支え方がよりしっかりするのを感じた。

これは偶然たまたま起きたというより、ボードが安定した足場を提供してくれたことがきっかけになったに違いない。身体の自己調整能は、身体が(頭ではなく)、今とりあえず安全な環境に居ると認識して初めて、必要なプロセスを進めることができる。

ボードにのるだけなのに、いろんな気づきが生まれて面白いです。


声のパフォーマンス

身体を楽器に例えると、全体がよく響く方がいい。ロルフムーブメントの観点からは、身体にはいくつかの振動板〜ダイアフラム※構造がある。骨盤底や横隔膜もそれらの一つである。足底も含めて、ダイアフラム同士がよく響き合う状態をロルフムーブメントでは引き出す。それによって声のパフォーマンスが変わることはよく観察される。一方、水平面の共振はしばし注目されるが、垂直面の構造にも当然のことながら重要である。立位での位置関係になるが、上肢と下肢の骨間膜、胸郭内の縦隔、頭部の大脳鎌などの垂直面の振動板として捉えることができるので、これらの共鳴を引き出すと、さらに声のパフォーマンスが変化する。

しかしながら、実際に声を出す段階になると、さまざまな緊張のパターンが邪魔してパフォーマンスを上げる障害になる。たとえば、声を出そうとするあまり、喉や胸郭上腔をぎゅっと狭めてしまうパターンがあると、どんどん声帯に負担がかかってしまう。いかに空間を狭めず空気の通りを妨げないように響かせるかがポイントになってくる。

からだの内側での共鳴だけでは、実は足りない。周囲の空間に響かせる必要がある。そうなると、空間との関係性が鍵になってくる。スピーカー自体の性能がよくても、部屋の構造とその配置が大切なのと同じである。

声といっても、様々な音域があるので、響かせやすい音域がそれぞれ異なる。声というと声の出し方に注意がいきやすいが、声帯を通して、身体のどのダイアフラムと共振させて、空間にそれを響かせていくか、といういくつかの段階がある。「声を出す」と聞くと、出力の一方向性が強調されるが、響くためには、振動板間、からだと空間との間の双方向の共振が含まれることにきがついていると、それだけで声についての捉え方、響かせ方が変わってくる。

声のパフォーマンスを上げようとするとき、どの段階がネックになっているのか、どの振動板の共振がイマイチなのか?その制限のパターンがどこから生じるのか?見極める必要がある。

※ダイアフラム:ロルフムーブメントでは、身体内の空間を仕切る水平膜として機能する構造を指す。口腔底、骨盤底、足底などが含まれる。音響学では、振動板と訳されている。

ココロのバランスボード

ヒモトレ発案者小関勲さんのところで開発されたココロのバランスボードを最近使い始めた。クライアントの方で、立位や歩行が困難な体幹性のジストニアと診断された方に、セッションの後このボードに乗ってもらった。すると、理由はわからないが、安定感が得られるという。普段立つことに支障がない人間にとっては、すごく大きな差としては感じにくいかもしれないが、こうした体幹を支えるのが困難な方にとってはその差も大きく感じられるのだろう。

自分がこのボードに乗ってみると、足元・床に対しての信頼感が増す。この感じは、例えば即効的にどこかの緊張や痛みがすぐさま消えるというような急激な変化ではない。今ある状態でそこそこうまくいっているとさらにちょっとだけその質が変わることに、ヒトはその変化を感じ取りにくい。しかし、身体感覚がある程度育っている人間なら、その違いを感じ取れるだろう。

身体感覚がまだ育っていない場合でも、それを毎日ちょっとづつ継続してボードにのってみる。すると、小さな変化が積み重なって、やがて自覚できるレベルまで違いがでてくるに違いない。

理由はともあれ、なんだかココロのバランスボードにのると安心する。地面に対してより親和性が増すということである。それは、ロルフィングが目指していること、重力との調和に向かうことに他ならない。シンプルにのるという動作だけで、安心するという感覚につながれるということには大きな意味がある。

セッションの後に、何か気をつけることとか、した方がいいことはあるか?とよくクライアントの方に尋ねられる。注意しなげればならないのは、役に立たないアドバイス – 身体にとって決してプラスになっていない情報で、頭が一杯になっている例は少なくない。そういう場合は、あえて、何かこれまで課してきたこと、腑に落ちたわけではないけど鵜呑みにしてどこかで仕入れたことをとりあえず、「やめてみる」ことにむしろ意味がある。ジャンクなアプリをスマホから削除するように。 一方、このバランスボードにのるという行為は、実のところ本人の身体に役立っていない”何か”を過剰にやり過ぎて混乱している状況から、一旦離れる手助けをしてくれる。

ボードの説明を読むと、なでしこジャパンなど一流の選手がこのボードを利用しているという。彼等は、インスタントで意味のないものに時間を割くヒマはないので、本当に意味のあることであれば、地道にそれを採用する。そうしたスタンスの人々に支持されていることにはきちんとした理由がある。

ロルフィングのセッション後、家で何かできることの一つに、「ココロのバランスボードに毎日乗ってみる。」ことをお勧めしたい。


介入はより精妙な方へ

「ロルフィングを受けるということは,車を大衆車フォードから高級車ジャグワに身体を乗り換えるようなものです。ジャグワの乗り心地を知ってしまえば,乗り換えてからの時間の長さに関わらす,誰もフォードにまた乗リ変えようとは思わないものです。」 – 創始者アイダロルフ博士の言葉

この例えは、「乗り心地」が劇的に変わることをいいたいので、大衆車と高級車を引き合いに出していますが、実際のセッションは、全く別の車に乗り換えるわけではないので、材料はそのままで腕利きの整備士にチューンアップしてもらって、結果として乗り心地がガラッと変わるということだと思います。

いい乗り心地を体験すれば後戻りしない、それが持続性につながります。ただし、ここで問題なのは、どんなセッションでもそうなる保証はないということです。グレードアップしたつもりが、チューンアップを担当した整備士がポンコツってこともあります。当然ですが、その仕上がり具合によって、後戻りするかしないか決まります。

そこで、車をよく知り、状況を把握した上で、腕利きの整備士が担当したとします。すると車もドライバーも大満足するわけですが、次の整備の時に担当が変わって、雑な整備しかしてくれなかったとします。そうすると、当然不満が出るわけで、またあの腕のいい人を指名したくなるでしょう。それと同じで、車も身体も精度が高い調整がなされると、その先の整備・調整はより高い技能を持った整備士にお願いしたくなるものです。

身体はメカニックというより楽器とみることもできるので、車より別の例え、ピアノの方が当てはまるかもしれません。ピアノは、いい調律を受けた後に、さらに正確な調整をしようとした場合に、雑な調律ではかえって音が外れてしまいます。さらに調整を先に進めるためには、雑なやり方はもはやそぐわないことになります。

身体は、有機体なので、毎回同じような刺激には慣れてしまうし、先に進むためにはその都度でてくる課題を読みとり、さらに先に進化する手助けになるような介入を求めています。毎回固くなるところを毎回同じように揉む、毎回滞りが生じるところを解放する、のくり返しでは、一時凌ぎのパターンを強化しているに過ぎません。身体の統合が進めば、身体の応答性・反応性は高まり、自己組織化する力も向上してくるはずなので、介入はより繊細で少しの時間で済むようにシフトしていくはずです。

もし、その方向に進んでいないとしたら、受け手が本来のライフスタイルや人生の流れに逆らっているか、または、整備・調律する施術側が、受け手の身体の自力で調整する力を奪っていることになります。



セッションを成功させる3要素

みなさんは、施術者の腕さえよければ、いい結果が必ずでると思い違いしてませんか? そもそも変化の主体が受け手にあるとすれば、必ず腰痛が治る!とか、いうキャッチーな宣伝はうまく行くケースがあるのは否定しませんが、どのような症状であれ、何かが100%治るというふれ込みはまず嘘とおもっていいでしょう。

では、セッションを成功させるために必要な条件は何かというと、

  1. 技法の種類が合っているかどうか?
  2. プラクティショナーの技量
  3. 受け手のスキル・力量

 これらの3要素がうまくかみ合った時にセッションが実りあるものになります。

どんなに経験を積んだ優れたプラクティショナーあっても、受け手がそれを受け取って変化しようという姿勢と器がなければ、うまく変化を引き出すことはできません。また、選んだ技法より、別の受け手に合った方法があるかもしれません。その時その時にちょうどいい組合せとタイミングがあります。

すごく繊細なワークをするadvanced Rolferより、BasicなRolfingの方がうまくはまる場合もあるでしょう。一方、繊細なタッチでなければ、 深い変化を引き出せないケースもあるはずです。

あなたの今のタイミングで出会うべき技法と施術者は、食べログの口コミ評価を見てお店にいくような決め方ではうまく行かないでしょう。或いは、自分の勘に頼らず、並んでいるという理由だけで、そのお店に行くような選び方。からだを預けるわけですから、からだの感覚が一番頼りになります。(すべてに言えるけど、楽しい仲間とであれば外れや失敗もまた楽しいですが。。)

頭や出回っている情報からではなく、あなたのからだが、向く方はどこか、感覚を使い始めましょう。そこから、すでにセッションは始まっています。

変化を引き出すということ

セッションの介入は、やり過ぎはよくないのは何となくわかる。薬は合っていても、過剰になると、かえって害になるのと同じ理屈だ。かといって、「手を抜く」というのも適切とはいえない。もうちょっとだけ一手間かけていれば、味がしまる、ということもあるだろう。

一方、からだは生きもので、常に応答する力があるとするなら、詰めすぎる、完璧に仕上げるような意図だと、からだが自力でなんとか最後の調整する機会と空間を奪ってしまうリスクがある。

なので、手を抜いているわけではないけれども、からだに変化してもらう部分を尊重しているのが、イールドワークともいえる。Rolf Instituteの機関誌のインタビュー記事でKathyが書いてくれたことを、別のクライアントの方が同じことをいっている。

初めて受けた田畑さんのセッションはある意味、驚きました。というのは、本当に、触れたかどうかの距離感というか、触れ方が何か物足りなさを感じるんだけれども、それを充足させようと、今度は自分の内側からそれを補おうというものが引き出されているものを感じたからです。”

私のパートナーも外国人でロルフィング をアメリカで受けているのですが、今回、私がロルフィング を受けてから、さらに、何か間合いが以前より取りやすくなっているように思いました。”

“体の内側だけでなく、外の世界でも、不思議となにか、気づくようになったからなのか、自分が欲しい情報を心の中で思っているとそれに関したことが、いろいろと起きたり、出会いがあったり、シンクロが起きやすい状況になっています。”

間合い;空間との関係性をワークの中で扱っていることが反映しているのかもしれない。

パターン化しない

生体は、からだの内側の環境を常に一定に保とうとするホメオスタシスが備わっている。急激な外側の変化にも適応するためである。だから、外からの入力が継続して入ってくるのがパターン化すると、それで一つの平衡状態ができる。例えば、あるサプリや薬を常用するということになると、それがない状態でからだが何とかする力を削いでしまう可能性がある。薬だといよいよそれがないと生命状態が危険になるレベルで使うケースから、とりあえず緊急なのでその場を凌ぐために、使うやり方、そもそも弱い気質や傾向があるので、それに合わせてマイルドに補う漢方のような使い方もあるし、本当は必要ないけど、何となく不安だったり、宣伝で煽られているいるから摂る使い方まで、様々なケースがあるだろう。

外からの入力に対して、それに慣れてしまう(馴化)と、元々からだの方で代謝したり、あるいは自力でまかなえる部分を怠けさせてしまうリスクがある。

その見極めが肝腎だと思うが、からだとしては本当は必要としていないけど、例えば、何かものが入ってくると代謝や解毒しなければならなかったり、自分が作れる栄養素を作らなくていいと判断してしまう。

最近、ずっと続いていた自家製ヨーグルトや、発芽玄米を常食するのを止めてみた。お腹の調子は結構よかったのだが、何かパターン化してきたので、何かが不味いような感覚があった。食物繊維もほどほど必要だったり、腸内菌叢も大切だけど、本来、腸の正常な蠕動運動があれば、出るものは出せるはずだし、腸内にはそもそも自生している菌がいるのと、いつも他人の腸で定住していた菌がやすやすと新しい場所で定着するのもおかしい。結果何となく体調はいい。思い返すとヨーグルトも多分食べ過ぎだったような気がする。

いろんな多様なものがからだに入ってきて、それをちょっとだけがんばりながら、かみ砕いて、消化して、「何とかやっていく力」を発揮できるうちは、その力をギリギリまで怠けさせないようにした方がいいような気がする。

最高のサプリにいきついた方々には申し訳ないが、パターン化しない方がいいと思う。

痛みに対して敏感でいたい

安田登さんの新刊「すごい論語」を読んで、痛みに対しては鈍感にならずにいたい、と改めて思った。痛みを無視しようと、ないものにしたいという考えの先には、痛みの感覚を遮断する、神経ブロックあるいは鎮痛剤の服用という方法。あまりに痛みが大きい場合には一時回避は時と場合により必要かもしれないが、適切な量と服用のタイミング、そして、薬剤に依存しないための、自覚的な使い方が大切だと思う。

痛みを感じないようにするやり方は、大きく分けて、1)痛みを感じないように感覚を麻痺させる、2) 痛みに対して、寛容になるように条件付けする、 3)痛みを生じさせている要因に働きかける、の3つである。

1)はあくまで一時凌ぎか、レスキュー的に。2)の寛容は、ある感覚に慣れさせてしまう脱感作のやり方。鼻がある匂いに慣れて、匂わなくなるのに似ている。1)、2)に対して、3)のやり方は、痛みという感覚はそのまま、感度も落とさずに、痛みというサイン、つまりその負担が減るように働きかけるやり方。

例えば、家の中が臭う。が、臭いの元がどこにあるかわからない。探すのが面倒なので、とりあえず手もとにあったマスクをしてみる、それでも臭いから鼻栓をしてみる。これが1)の方法。次に、だんだん鼻が慣れてきて、それ程気にならなくなるから、まあいいっかという気持ちでそのまま過ごす。これが2)の方法。でもこの2つのやり方だと、部屋に誰か来たら一発で不味いことが起きているってわかるっす。そこで、何が臭っているのか、どこにあるのか探して、それを部屋から外に出す。すると当然の結果として、部屋は本当の意味で臭くなくなります。これが、3)のやり方になります。だから、2)のそれに慣れてしまって「寛容」になるっていうのは、その部屋の主として自分だけの世界ならごまかせるんだけど、そもそもの臭いの元がなくなたわけではないので、客観的に観ると、決していい状態ではないわけです。

寛容になったところで、腐った本体はあるわけだから、部屋の主が気にならないとしても、腐敗したガスが肺に入ってきたり、菌が繁殖することで、感染のリスクが高まってかもしれない。だから、あるものをないように感じているだけで、根本の状況は変わっていないことになります。

痛みに例えると、痛みをサインとして、その要因を探し出して、根本を変えない限り、からだは納得できない。よりよい状態に移りたいがためのサインとして捉えない限り、痛みは面倒な感覚で邪魔者扱いされるかもしれません。それでは、痛みが浮かばれないし、サインを出している本来の意味が汲み取られないことになります。

だから痛みに関しては、その感度を落とさずに尊重して、それを生み出している要因を変えるような働きかけ、大抵の場合、痛みの箇所とは別のところに位置していることが多いですが、痛みを押さえ込んだり、その感じ方を鈍感にするような働きかけは、根本解決とはいえず、注意が必要なことは間違いないと思います。

※そうやって考えると、寛容とか馴化というのは、それ以上変わらない環境に対する生物の適応力を利用しているだけで、何か他に打開策はあるのかも?という気がしてきました。