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吹上奇譚第二話

幻冬舎から出版された、吹上奇譚第二話どんぶりについて。

随所に哲学的な内容が鏤められ、ホラーを通して描かれているが、最近身の回りで起きたことのホラー性?ホラーぶりを思い起こすと、現実の方がよっぽどぞっとすることの連続なのかもしれないなあ、などと思いつつ、第一話の続編である。

本書を読んで強く意識したのは、「自然の摂理」。

それには結局のところ、どうあがいても、抗うことはできないということ。逆にその摂理に沿うようにしかならないのだから、仮に人の思惑とか支配とか余計な力が一時的に働き作用することはあっても、それが自然の摂理に反していれば、自ずと最終的には外れることはないということ。

だから、現実にどんなことが起こったとても、そう慌てる必要もなく、どの位置に居ても所詮、大きな道の中にあって、経過していくことを気づいていればいいのか、と思った。

それぞれのめり込みそうになる傾向や、考えや嗜好に偏りがある。そうすると生活する上で、ムラや濃淡が出過ぎて、結果隙が生じる。その隙間にはつけ込まれる時間と空間があるということ。純粋な好奇心は、隙間を埋めるような動機には由来しない。足りていないものを幻想的に満たそうとする心の動きではない。そんなとき、どこか身体は浮き足立っている。

理由はわからなくても、内側から湧き出た欲求や好奇心に従って打ち込んでみる、そうすると、一見厳しい状況だったとしても、自然の摂理に従って、状況が一転する。まずい事態にはそれとほぼ同じタイミングで、味方になってくれる人材やモノがやってくる。つまりは、捨てる神があると、拾う神も必ず一緒にやってくるような感じ。

教育システムや出来事を編集された形でつたえられる情報に洗脳されている部分が多いが、せき立てられているような錯覚、今のままではダメで、新しい何かに乗り遅れるとサバイバルできないような幻想にどこか毒されている。でも、自然の摂理はそんなこととは関係なく独自の流れを持っている。

そんなことを思い出させてくれる本書だった。

吹上奇譚-第二話-どんぶり-吉本-ばなな

 

2019 年を迎えて

年末、投稿記事の〆切りに間に合わず、とうとう喪中以外に年賀状出さなかったのは、今年が初めてという、世間的にはダメダメスタートです。

とはいえ、なんとなく、新年始まったと感じるのは、いつも旧暦が合っているなのか? こじつけなのか、毎年2月に入ってからです。

今年は、ロルフ研究所の教員になって10年目を迎え、ロルファーとしては、21年目になります。昨年までの数年は、実験的にいろんなものを試して、ロルフィングに役立つものはないか、探索してきましたが、何度もこれまで確認してきましたが、ロルフ博士が仰っていたように、

ロルフィングは、ヒーリングではない。

ということ。いくら何かに有効なアプローチがあったとしても、受け手が自分のバランスに責任をとり始めるのを助けるなら、何か外から注入するような考えは、結局クロージャーが見えないし、力を奪うことになりかねない、ということになるので、ヒーリングは自分の性に合わないんです。

どんなことがあっても、誰かの言葉を神格化してはいけないし、盲信してはいけない。その都度、まともな批評力を持って、よく観る必要があることを痛感した年末でした。

それがまともなものかどうかを判断する基準として、

お金の動きを観察する。→ 不自然な額になってないか?

排他的かつ優越性が高まっていないか? →他の人ややり方に陰で否定的になる。

秘密が多くなる → ここだけのことや話が多くなって、外向きにいっていたことと矛盾↑

境界が曖昧になる → 言うまでもなく。

というところでしょうか。

 

 

ウイリアム・レーネンさんと

 

サイキックチャネラーのレーネンさんには、来日の度にセッションして頂いています。

霊的に自分が今どこにいて、どこに向かおうとしているのか、中々自分だけであと、気づかないことや、薄々きづいているけど、今一つ確信が持てなかったり。。

そんなときには、占いや神がかり的な何かに頼りっきってしまうのはリスキーだけど、それはそれとして、一つの観方・捉え方として、どう参考にして、実際に行動することに対しての責任を、自分がとることができるのであれば、信頼できるサイキックな方にセッションしてもらうのは極めて意味のあることです。

レーネンさんは、媒介者としてメッセージを伝えてくれますが、これがとても的確で、時に厳しいです。伊藤さんの通訳もどんどん鋭くなってきて、何が聴きたいのか、自分が明確でないとだんだんしどろもどろになってくる自分を感じたりして。絶妙のコンビです。

新しく学んだこと(多分量子波)や、新しく導入したもの(多分CS60)もいい流れの中にあるようです。そういえば、CS60を何の説明もなく、レーネンさんに見せたら、

これは、レムリアのものでもアトランティスのものでもないとチャネルして仰ってました。

そして、両極から、不要なものを吸い取るもので(当たってる!)とのことでそれ自体意志があるそうです。前回と今回これを使ってセッションさせて頂いたのですが、とても元気になったとのこと。(ただし、基本的な強く擦る使い方ではありませんでした。)

交通事故に遭われてから、同じ姿勢でいることが困難な身体状況であるにも関わらず、毎年2回来日して精力的に活動されていることに、ほんとうに頭が下がる思いです。

今年もお会いできたことに感謝!

CS60

CS60は、生体に蓄積している有害な迷走電流を排出するのに効果的な施術器具です。

ロルフィングは、基本的に手で行う技法ですが、コールドレーザーやアクティベーターと呼ばれる器具などなど,D.O.やD.C.が使うような器具をロルファーが用いることもあります。しかしながら、私自身は、何かの器具を用いることは避けてきましたが、このCS60には、確かに意味があると感じました。

経験上、ロルフィングをしていると、足の支えや骨盤の支えがしっかりしてくることによって、肩の緊張が解消されることはよく観察されます。しかしながら、支えの充実だけで解決できないケースも多く、それが長年自分の中で謎でした。特に肩甲帯には、何か蓄積しやすい性質のようなものがあるということです。

そこにCS60で施術、実際にはある程度の圧力を加えるのですが、かなり圧されても大丈夫なところと、逆に触れている程度なのにすごく痛く感じるところがあると思います。この時の痛みは、余剰の電流が急激に脱けていく時に起こると西村先生は解釈しています。

ここで思い出されるのは、ロルフ博士の痛みに対する考え、”痛みは変化に対する抵抗である。”(うろ覚えなので正確なフレーズではないかもしれません)

そもそも神経が集まっていてそこ強く押したらそりゃ痛いでしょ、ってところをぐいぐい圧したときや、下手なマッサージを受けた時の痛みは論外として、圧も大して加えてないのに、鋭い痛みやなんとも言えない違和感を感じるような場所を誰しも持っていると思います。そこにCS60を当てられた時の痛みは、ひょっとすると、変化への抵抗なのかもしれない、と思ったのです。

ただし、No pain , No gain. 痛みを伴わなければ、何も得られない。という言葉がありますが、とても注意しなければいけないことを含んでいます。つまり、施術者との信頼関係があって、安全と安心が確保されていること、そして、施術者もそれに応えるだけの技能が伴っていることが大前提での言葉です。その上での、CS60がまさにその場所に置かれて、その痛みを通過した時に、確かに解放が起こるようです。

さらに注意しなければいけないのは、受け手がその時に受ける痛みという感覚を、意味づけなく単なる痛みとして体験できれば、問題はないのですが、痛みによって想起される事柄が多い場合 ( – トラウマが再体験されそうになる等) は、慎重に行う必要があります。例えば、痛みによって、自分が粗末に扱われているという感覚に打ちのめされてしまうようなケースなどです。そこに、施術者が、これはいいことだという思い込みが強く、受け手のフィードバックや様子を無視して、ごり押ししてしまうと、いい結果が生まれるどころか、逆効果になってしまいます。

“痛みの体験はそれ自体が目的ではなく、解放や感覚が戻ってくる途中で出てくるもの。”ということを忘れてはいけません。そして施術側が、自分の攻撃性にどれだけ気づいているか?受け手の受容性や反応を無視して一方的に”良いことをしている”という類の治療信念を押しつけていないかどうか? などなど。

それらを踏まえた上で、CS60を使用するのであれば、極めて意味のある施術体験となるでしょう。

ロルフ博士の施術を受けた人の話を聞いたことがあります。痛いには痛かったが、電磁波様の感覚だったと。恐らくそれは、強い圧力で生じる痛みというより、電気的な何かが同時に脱けていくような痛みだったのではないかと想像します。

じゃあ余分な電気さえ抜いてしまえば、身体は統合されるのか?という疑問が生じます。

たまたま、ロルフィング10シリーズを受けている最中に、CS60を専門にやっている方から受けたクライアントの方がいたのですが、写真で比較すると構造(姿勢)にはほとんど変化は認められませんでした。

ということは、迷走電気を抜くだけでは、統合への変化は促されないようです。

さらに、痛みはいつも伴うのか?という疑問ですが、ロルフィングの10シリーズと5回のムーブメントを終えたにCS60で3回ワークしたのですが、この方は、全く痛みを感じなかったにも関わらず、身体はより統合へと向かいました。

ということは、高度に連携して統合された状態であれば、余計な電流を溜めることないため、CS60によって痛みを感じることもなくワークを受けることができ、自立的なバランスを確立しているということもでき、それが目指すところだと確信しました。

イールドワークをする上でも、イールドを妨げるところにCS60を使うとより反応が促されます。

ただ、私のスタンスとしては、余分なものを排出する力は、本来備わっているので、その能力が発揮されることもまた重要だと考えています。その蓄積度合いと、受け手の方の容量を観察して、方向付けするのに最低限の介入に留めたいと思っています。

CS60に関しては、そのようなスタンスで使用していこうと考えています。

※ CS60本部オフィシャルページ

発明者である西村光久氏のビジョンは、寝たきり老人をなくすということにあり、とても共感できます。

身体をより進化させる

身体が統合される過程において、いろんな段階があります。

(痛みの側面から)

0.身体に感覚が行き届き難く、感覚が麻痺していて鈍い。

1.身体の場所に慢性的な痛みがある。

2.痛みの質が変わる。例:鈍く広い範囲の痛みから、範囲が狭くなって、痛みがはっきりする等

3.痛みが気にならなくなる時間が増える。

4.痛みがあったことを忘れて生活している。

5.触れて痛かった場所が、触れても問題なくなっている。

6. 身体の様々な場所が、ある程度の圧力を加えても違和感がない。

(バランスから)

1.身体がばらばらな感じがして、意識してもバランスがとれない。

2. どこかに意識を向ければ、バランスがいいところを見つけられる。

3.意識しなくても、気がつくと変な力みが減っている。

4.何かを意識しなくても、違和感を忘れて快適さを保っている。

(身体感覚、自己調整能へのアクセス)

1.痛みや違和感しか感じられず、それに占有されている。

2. 違和感もあるが、それを一つの感覚と捉え、他の感覚にも注意が向けられる。

3. フェルトセンスと呼ばれる、身体の微細な感覚を感じ取ることができる。

4.安全な状況の中で、フェルトセンスを通して、必要なプロセスをサポートを得ながら進めることができる。

 

身体状況にはいろんな段階がありますが、いえることは、どの段階からも先に進める可能性があるということです。私自身、過去の交通事故の影響もあり、ロルフィングを最初に受けたときには、何を感じているか? 全く答えることができなかったことを思い出します。フェルトセンスが感じられる様になったのも、様々なトレーニングやセッションを通して、いつの間にかできるようになりました。地道に身体と向かっていれば、感覚を感じるための基盤、土壌が耕されて、ある閾値を超えるとそれが可能になるのだと思います。

常に希望を持って、ある段階からは、そこまでで、”付き合っていく”という関係性になると思いますが、それより前に、辛抱強く、諦めず、失敗もしながら、変えられる可能性に「希望」を持っていれば、何かが変わっていくはずです。

以下の方の例は、最初の10シリーズ後かなり快適になったのですが、ご自身の武道の実践の質を高め、もっと探求したいというご意志で、半年経ってからAdvancedセッションを受けにお越しになりました。 写真が示すように、さらに変化する可能性が身体にはあって、望む人にはそれを起こすことができます。 人それぞれ同じようにはいかないし、ペースも違います。ただ、小さい変化を積み重ねていくことが、急がば回れという言葉があるように、気がつくと大きな変化、違いとなっている。

ちょっとづつ変わっていくとその都度それが馴染んでいくので、変わった実感はすぐ消えてしまいます。しかし、劇的なことより、着実にその変化を消化していくと、小さいわずかな違いにしか思えないかもしれませんが、派手さはないものの、それこそが望ましいいい変化なのだと思います。

どこに合わせるか?

成長する過程で、いろんな環境からの影響から、いつの間にかずれた状態になっていることに気づいたら、どうバランスを取ったらいいんでしょう?どこに焦点を合わせていけばいいんでしょうか?

忘れてはいけないのは、掘っていけば切りが無いということ。それより、本流に戻すことが肝腎です。本流に乗るには、自分が没頭できることに熱中している時間を多く取る。違和感なんか気にする隙がない状態です。

それと、回復を考えた時には、じゃあ今の状態はそもそもの己の状態とはちょっと違うかもしれない、ということです。そもそもとは、いろんな教育やら躾やら情報に害される前の自分ってどんなだったか思い出すことです。サバイブするのみやむなく身につけた術を自動的反射的に使うのではなく、ちょっと距離を置いて、ゆっくり感じてみる。

自分は意外とせかせかより、のんびり屋さんだったかもしれないし、目立たないようにする前は活発に人と遊んでいたかもしれません。 いろいろ削がれる前にどんな感じだったのか? 嫌な出来事の付近に自分が元々あったわけではなく、そもそもどうだったのか思い出してみるのも手です。

自分のいい時期の音楽はいい懐かしさと感覚が戻ってくる助けになるかもしれない。いっそ最新や聞いたこともない音楽で感覚を目新しくしてみたり、いろいろやり方があります。

でも嫌な時期と微妙に重なるような音楽や五感を通して感じていたこととは、関係ないところに自分を持っていく方がいい。それとは無縁の居心地よさを見つけられると随分違うと思います。

また聞きですが、バシャールは、治癒がうまくいくためには、いろんな過去生があったはずだが、健康のまま死んでいった過去生が一度くらいはあるので、その時の波動に合わせるといいというようなことをいっていたらしいです。それと似た感じです。

客観性

物事を判断する上で,客観性が大切とか,信憑性を評価するのに統計的有利性があるかどうかという話になる。

身体感覚は,その個体固有のもので,主観的だ。気分的な感覚も含めて,暑い,寒い,心地よく感じる,不快など,これらは正しい正しくないではなく,そう人がそう感じることだから,ただそう感じているということになる。

小学校の時に教師が,掃除をしたら,気分がよくなるだろう,そう感じない人はいるか?と聞かれて,いいとは限らないし,掃除した後の爽快感はずっと後になって知ったものの当時は,その気持ちがわからなかったので,正直に気分はよくならないと答えたことがある。散々,よくなるはずなのにならないのはおかしいというお説教が続いたのだけれど,ずっと納得いかないことの一つだった。

身体がどう感じるか,はただそう感じているだけで,正解不正解はない。多数,正規分布からかなり外れた感じ方をしたとしても,訂正はできない。にも関わらず,どういうわけか多くが感じそうな枠にはめられるような気になることがある。客観的にみてもそれは変だ!という人は,その人の主観でそういっているだけのこともあるし,想像上の客観的存在を想定して,主観をなしにしているように見せかけしながら,意見をいってくることもある。

そもそも客観的に観ること自体できることなのか,という疑問が湧く。

身体感覚は主観的なので,常に自分になにが起きているか主体も明確で,そこが基軸になって展開する。ところが,通常教育のシステムの中にいると,管理され癖がついていて,自分がどうしたいのかよりも,会社員としてはどう振る舞うべきか?とか主体が自分以外のところに位置しやすい。

それが習慣となっていると,主体が自分以外のどこかに離れやすくなる。まず自分がこう感じていることを前提に,相手はこう感じているかもしれない? と想像することができる。それを想像上の客観的何某かにいつも基準を合わせていると,ほんとうはどう考えているか以前に,どう感じているか?さえわからないまま生活することになる。

だからとにかく毎瞬毎瞬気分でもどんな感覚でもいいから,感じていることに注意を向けることから開始する。

そういう自分も最初にロルフィングを受けたときには,どう感じているのか?と聞かれても,どう答えていいのか全くわからなかった。感じていることより,考えから何かを言おうとしたのを覚えている。 フェルトセンスなどの身体感覚を感じて言語化するのが難しいとしたら,教育にも問題があるだろう。

自分が感じていることをしっかり感じられること,自分のことを把握する基盤があって,それから周囲のことも感じ取れるようになるというのが順番だと思う。いろんなことを細かく感じ取れるようになると,他人がどう感じるのかについても寛容になれる。そうすれば,お互いに様々な感覚に対して,判断なくオープンになれるはず。

セッションは,それが基盤になって,間主観,相互主観的に進むもので,想像上の客観的視点,或いは何か宗教的シンボルが介在すると,シンプルではなくなってきます。

 

お臍をワークする

例えば、お臍周辺のお腹が何か脱けているような感じだと、背骨だけが支えすぎて、身体の前の支えが充実していないことがあります。そのような場合、大腰筋・腹横筋・脊柱起立筋の張力バランスのような筋骨格的な観点も大切ですが、それだけでは、うまくバランスされないことがあります。

出生時にいろんなストレスがかかった可能性があるとすると、臍帯は身体の全養分を供給してもらう入り口なので、そこへの負荷は命に関わることなので、機能している間にそこが遮断されるような介入は大きな出来事になることが容易に想像できます。そこが未だにショックを受けたまま時間が止まっていると、当然腹部全体は、偏りのある張力でのバランスのままということになります。

臍帯から全身の血管系とのつながりを捉えて、放射状に連携を引き出すようなワークを行うと腹部全体の状態が変化します。お腹が安全を感じるということは、お腹の内側の組織の張りが落ち着いていて丁度いいということと関係しています。

従って、お臍と全身の血管系との連携を意識したワークにはかなりのインパクトがあります。

血管系、肚、内臓全体にも大きな影響を与える可能性があり、血液の供給先である、様々な臓器も影響を受けることになります。

ただ、どのようなストレスが過去にかかったとしても、身体に元々ある柔軟な適応力が、なんとかしてきた完全性がそこには存在しています。その健全な力とアクセスすることが大切で、医療処置全般を敵視したり、トラウマ追跡モードに入ってしまうと、セラピストとクライアント共々袋小路に入ってしまうので注意が必要です。

共鳴現象を使う

最近ようやく施術者の立ち位置、望ましい状態がはっきりしてきた。

施術者がどこに自分の波長・波動を合わせて、どこからワークしているか?ということが本質で、テクニカル的なことはあとからついてくる。

トラウマあるいは不具合とワークするのか?

それともその人の健全な部分とワークするのか?

自分の健全なところに波長を合わせているのか?

マニピュレート(一方向的に操作)するのか?

それとも共鳴を使うのか?

これらの問いかけをしていくと、自分が何を目指しているのか明確になるかもしれない。

他者に何かを与えて(自分が与えたような気になることで)、何かをやった感や優越感を満たしていないだろうか?

自分はトラウマや病気の波動に合わせることで、それによって得るものがあるのではないか?

共鳴を使うということはそれらを手放すこと。自分が健全なところにアクセスしながら、そこに同調してくるのを待つ。

或いは相手の中にある健全な波長にフォーカスをずらさずに、そこを観続け、広がってくるのを待つ。

受け手が、受け手のつながりの甘いところや感覚が行き届いていないところが、健全なところに共鳴してくるのをひたすら待つ。

統合のための本質はそこで、それぞれの施術者の入り口や切り口が違うだけなのかもしれないと思う。