客観性

物事を判断する上で,客観性が大切とか,信憑性を評価するのに統計的有利性があるかどうかという話になる。

身体感覚は,その個体固有のもので,主観的だ。気分的な感覚も含めて,暑い,寒い,心地よく感じる,不快など,これらは正しい正しくないではなく,そう人がそう感じることだから,ただそう感じているということになる。

小学校の時に教師が,掃除をしたら,気分がよくなるだろう,そう感じない人はいるか?と聞かれて,いいとは限らないし,掃除した後の爽快感はずっと後になって知ったものの当時は,その気持ちがわからなかったので,正直に気分はよくならないと答えたことがある。散々,よくなるはずなのにならないのはおかしいというお説教が続いたのだけれど,ずっと納得いかないことの一つだった。

身体がどう感じるか,はただそう感じているだけで,正解不正解はない。多数,正規分布からかなり外れた感じ方をしたとしても,訂正はできない。にも関わらず,どういうわけか多くが感じそうな枠にはめられるような気になることがある。客観的にみてもそれは変だ!という人は,その人の主観でそういっているだけのこともあるし,想像上の客観的存在を想定して,主観をなしにしているように見せかけしながら,意見をいってくることもある。

そもそも客観的に観ること自体できることなのか,という疑問が湧く。

身体感覚は主観的なので,常に自分になにが起きているか主体も明確で,そこが基軸になって展開する。ところが,通常教育のシステムの中にいると,管理され癖がついていて,自分がどうしたいのかよりも,会社員としてはどう振る舞うべきか?とか主体が自分以外のところに位置しやすい。

それが習慣となっていると,主体が自分以外のどこかに離れやすくなる。まず自分がこう感じていることを前提に,相手はこう感じているかもしれない? と想像することができる。それを想像上の客観的何某かにいつも基準を合わせていると,ほんとうはどう考えているか以前に,どう感じているか?さえわからないまま生活することになる。

だからとにかく毎瞬毎瞬気分でもどんな感覚でもいいから,感じていることに注意を向けることから開始する。

そういう自分も最初にロルフィングを受けたときには,どう感じているのか?と聞かれても,どう答えていいのか全くわからなかった。感じていることより,考えから何かを言おうとしたのを覚えている。 フェルトセンスなどの身体感覚を感じて言語化するのが難しいとしたら,教育にも問題があるだろう。

自分が感じていることをしっかり感じられること,自分のことを把握する基盤があって,それから周囲のことも感じ取れるようになるというのが順番だと思う。いろんなことを細かく感じ取れるようになると,他人がどう感じるのかについても寛容になれる。そうすれば,お互いに様々な感覚に対して,判断なくオープンになれるはず。

セッションは,それが基盤になって,間主観,相互主観的に進むもので,想像上の客観的視点,或いは何か宗教的シンボルが介在すると,シンプルではなくなってきます。