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rolfinger について

米国Rolf Institute認定ロルファー&ロルフムーブメントプラクティショナー。

CS60の施術方法について

CS60は、注目に値する施術器具です。その実績については、開発者の西村先生のブログや公式サイトをご参考ください。その基本的な使い方を教える青山の本部での研修は、20~30Kg程度の圧力を加える施術方法なので、場所によってはかなり痛みを伴う場合もあります。

痛みに寛容な方もいれば、かなり敏感に感じる方もいて感受性に関しては千差万別といえます。後者に該当する方がCS60の施術を受けた場合、中にはあまりの痛さに絶えられずもう受けるのを止める方も実際にいます。

これは、非常に残念なことだと思っています。

痛みに対する感受性は、怪我や食生活、遺伝的特質も関連していますが、生まれつきの傾向が、高感受性のタイプが実際います。前のブログでも書きましたが、肺虚に分類されるタイプが痛み高感受性とするとその比率は、おおよそ5分の1存在します。これに様々な怪我やトラウマによって、後天的に痛みに過敏になったタイプを足すと、さらに比率は上がります。

ということは、かなり痛みを伴う施術でそのまま効果がでるタイプと、効果はでるものの痛みに対しての許容量が少ないために、効果以前にダメージを受けてしまう場合が実際にあるということです。

施術は、人と人とのやり取りですから、理論や原則があったとしても、目の前の人がどうその介入を受けとるかがすべてです。

施術者の方のスキルと実力があれば、いくら痛みがあったとしても、その効果とを天秤にかけて、続けようという気持ちになるはずです。当然デメリットの方が大きければ、施術器具がいくら素晴らしいものでもそれはただの金属の塊と嫌な体験です。

私は元々、痛みに対して寛容ではないため、古典的な痛みを伴うようなロルフィングのやり方を自分が受けていいようなやり方に変えてきたので、CS60についても同じ考えがあります。つまり基本は基本として、別のやり方があるはずであると。

したがって、基本のやり方でそのまま効果がでる人もいるし、うまくいかないこともある。だからといって、やり方が正しくて受け手が悪いわけではないこと、それを押しつけることはできないということです。型を守ることは大切ですが、受け手が最大の恩恵を享受することより優先順位が高い規律など存在しません。

西村先生も、CS60を手にした人間が使いやすいように自由にやったらいい、と仰っていましたが、器具はあくまで道具なのでそれをどう使いこなすかは、施術者の問題です。

人数が増えてきて、その手法についてのグループができると、創始者の取り巻きが、やれ正しい使い方はこうあるべき、とか、自力でそのクライアントを呼んだわけでもなく、たまたま来てくれたことに感謝することもなく、オレの考えとやり方を押しつけて、結果が伴わないことがさも受け手にあるようなことを堂々と口に出してしまうようなリスクは常にあります。

どんなに素晴らしい手法や器具であっても、それは手段であって、変化や治癒の主体は常に受け手であって、決して”施術者側”ではないことを理解していれば、自ずと謙虚さと他者のやり方に寛容になるので、”オレ”流の押しつけや様々なやり方を排除しようとはしないはずです。

広げるということ

援助職業界や健康産業でいうと、たくさんの人が助かった方がいい、というのは通説だと思う。チェーン店や支店を増やすというのも、何らかの益を被る人は、できるだけ多い方がいいという発想。治療院も大きくなると、助手を雇って、人数をこなせるようにする。よく見かけるケースだ。だが、特定の施術者との相性に敏感な場合は、ええっ研修中の実験台になるの?という残念な気持ちになる。

起こりがちなのは、多数派に分類される人達は、その大きな流れにうまく乗って適合するけど、少数派がないがしろにされやすい。大抵の人が大丈夫そうなことでも、特定の人にとっては、過剰に感たり、とてもやり過ごせないこともある。不幸なことに理性が働かない集団の中にいたりすると、多数派にとっては組織の運営上や手間が増える面倒さもあってか、そうした少数派は、悪い意味で特別視され、煙たがられるか、がまんを強いられたりする。

自然に広がっていくのは当然のことだ。いいものは広がり、そうでないものは淘汰される。だが、大勢がいいと感じることが、万人には当てはまらないということを常に意識すべきだ。この治療者によるこの治療法がうまくいくこともある。でも同じ治療法なのに別の施術者との組合せだと成功しないこともある。そして、受け手が別になると、そのやり方自体全く合わないかもしれない。その可能性は常にあるわけだから、万人に効く魔法の術や万能薬は存在しないことになる。

例えば、中医学でいうところの、肺虚に分類される人間は、皮膚への圧力に敏感とされる。全体でいうところの25%の比率で存在する。また、トラウマの種類によっては、触れられることに過敏になっているケースもある。一方で、いくら強く押されてもいいし、できればなるべく強く押してもらった方が、”効く”感じがする人々もいる。有名な施術方法で、かなり圧力を用いる方法で確かにそれによって成果も出ていて実績がある方法もある。だが、どんなにオーソライズされた方法でも、先の肺虚のグループにとっては、ちょっとした圧力でもそれが本人にとっては過剰な刺激になってしまい、別のグループでの反応とは当然異なってくる。

可能な限りの集客を目指す立場にいると、効かない例というのは排除したい心理が働くだろうから、それらを特別なところ、或いはおかしな人達として分類して、別のグループでうまくいった実績のみを持ち出してアピールするかもしれない。薬の臨床試験で75%の治癒効果があるとなると、さも効きそうな印象があるが、25%には効かないので、そのグループに属すると、その薬は無駄かむしろ害になる。その個人にとって、7割5分治るということはないのだ。その薬が合うか合わないかは、常に100か0である。

それと同じ原理で、何かを広げようとしたときに、少数派は無視される傾向にある。

だが、少数であっても、自分に合わないやり方に出会った時、他人がどうであっっても、そのような反応に無理に合わせようとしたり、うまくいかないことを自分の何かが間違っていると考えること自体間違いだ。あたり前だが、感じ方や反応もそれぞれ異なり、人は違うということを忘れてはいけない。小さいものが長いものに巻かれたら、息苦しいだけ。それより、そのメソッドが素晴らしいものであるのなら、より改良される点を残しているということで、それを網羅できれば、全体としても発展する機会を提供することになる。また、創始者や講師が、そのような少数派の反応を無視するとしたら、そのメソッド自体或いは教えるものとしての人格を問う必要がある。

何かいいものが、いい形で広がっていくためには、大きな流れに乗らない、乗れない少数の反応を無視したり取りこぼさないように、それを伝えたり運営する人間は、聞く耳を持って、柔軟に対応していってほしいと切に思う。

私はというと、常に少数派に属しているためか、広げるという方向性に対して、常にうがった見方をしがちである。

蝶形骨周りの空間の重要性

人によっては、一度に大きな変化を伴う介入をたくさん受けても全く問題い方もいるが、中には、可動性が急激に増すと、平衡感覚つまり前庭の処理が追いつかず、目まいがしたり、ふらついたり気分が悪くなって中々適応に時間がかかる場合もある。

先日のセッションで、そのようなケースを扱ったのだが、セッションが進むに連れ、感覚が外に広がるものの部屋の中に限定され、身体感覚は薄く、解離に似た状態になった。その方はもともと横向きで寝ることが苦手とのことだったが、側方に荷重がかかると側頭骨から蝶形骨にかけて物理刺激が加わり、蝶形骨付近の空間が狭まって、内耳付近にも影響が及びやすいのかも、と推測した。

蝶形骨とその周辺の空間は特に繊細に扱わなければならない領域で、クレニヲの講習にいってセルフワークしているうちに、蝶形骨が内側にグッと入ってしまい、それから鬱傾向になってしまったクライアントの話を聞いたことがある。また、未熟なクレニヲのセッションを受けてからずっと鬱になってしまった方からも話を聞いたことがある。そういうケースの場合は、病理的や心理的な原因に由来するわけではなく、単に身体構造的な問題なので、いくら薬や心理カウンセリングを受けても見当違いということになる。

その回復には、まず蝶形骨周辺の結合組織の張力バランスを整え、頭蓋骨間の空間を確保してあげる必要がある。硬膜などの深部膜組織の可動性も関係してくる。

セッションによって、多少不安定感が増したが、十分時間をとりながら、蝶形骨や側頭骨周辺の空間が広がるように知覚からも働きかけることで、セッションも統合へと収束した。解離傾向にある場合は、筋肉の収縮活動をしてもらいながら、正常なトーンと存在感が増すような働きかけもまた重要である。

嫌がらせやいじめを受けるということ

父は大動物を実験対象とした研究職についていたが、観察していると、新入りの牛は、元からいる牛たちに突かれたり、グイグイされたりして、いじめのようなことを必ず受けるらしい。本能的に群れの中で異質なものを見つけたときに、動物的にはそれまでのパワーバランスを維持するために、マウンティングしたり、いじめてみたりという行為は、ある意味自然に起こり得るということになる。

学校のいじめ問題も、いじめはない、と学校側が責任逃れのためにコメントしたりするが、そもそもいじめるような行為が起こる可能性を否定しては先に進まない。

それより、忘れてならないのは、異質なものに対して、まず群れは排除しようとしたり、何らかの力を示して、力関係の下位に位置づけようとすること。だから、その個人がユニークさを持っていたり、他より抜きん出て目立つような特質を持っている場合には、そうでない大多数は、本能的に存在に対して脅威に感じ、何とか叩こうとするのは、動物行動パターンとしては特別なことではないというこどになる。

個性的であったり、何らかの才能がある場合は、群れの中の一個では力がないため、群れをなして、嫌がらせやいじめを行使するのは、動物ではありがちなことといえる。そうした動物的行動的衝動は、人間としての知性や道徳感によって抑制されるべきであるが、本能的にはそのような行動パターンがあらわれやすいといえる。

であるから、不当に嫌がらせを受けたり、群れでいじめを体験したことがあるなら、裏を返せば、その個人には集団にはないユニークさや才能があるということになる。何の才能もユニークさがなければ、いじめの対象にもならない。

悪いことだと分かっていても、いじめに賛同したり嫌がらせした人間の心には、そうした行為の記憶が澱のように心の奥底に堆積して、必ず何か健康や人生に影を落とすに違いない。それがカルマというものだ。

要らない関係性からの悪影響を断つ

人間は、社会的な生きものであるが故に、どこかに属していたという本能は誰しも持っている。哺乳動物は特に生後、生き抜くためには母親などのケアしてくれる存在が必要なので、関係しながら生きていくことが運命づけられている。

しかしながら、必要な場所で必要な相手との関係性が永遠に続くわけではなく、ある段階に来たら別れがあり、新しい出会いが待っている。それは個人レベルだったり、集団だったりする。現代において、つながりや絆がキーワードになり、時にタッチの重要性も説かれたりする。だが、関係性は常に動的で、固定されていたり、固執していたら、健全とはいえない。

この帰属欲求をうまく利用すると、組織や団体で会員を管理してコントロールすることも可能だ。それは人間の弱みにつけ込んで、意図的にやってはいけないことだが。関係性を維持するために、弱みや不安を刺激する文言が使われているとしたら、或いはその団体に属していることに優位性があって、他を不当に批判して囲われそうになったら、勇気を持ってそこから離れるべきだ。

ところが、悪意までいかなくても故意に心理や本能を利用する意図がある輩というのは、巧妙に人をそこに属するように仕向けたり、サイキックな力を使って、つながりを保とうとする。だから、身体や名目上はその組織から離れたとしても、何か重い感じが伝わってきたり、流れが滞ったりする。

では、どうしたらいいのだろうか? そんな時にもう要らない関係性を清算したいときには、以下のワークが役立つ。

  1. その人物に対して、思っていることをプラスもマイナスのこともすべて紙に書き出す。
  2. その紙を破り捨てる。
  3. イメージでその人物とのつながっているコードを切る。
  4. 自分につながっていた部分を、その人物の子供(一部)として、イメージの中で当人に返す。
  5. その人物のことを思い出したり話したりすると、また無意識につながってしまうことに注意する。

自分は強いから大丈夫な場合がほとんどだと思いますが、ただ、本人はよいとしてもその周辺、家族や動物など弱いところにその悪影響がでたりすることがこの種の問題でいやらしいところで、そこからダメージを食らったりします。

イタリア人ロルファー・ニコルさんとのコラボワークショップ

ヨーロッパでロルフィングトレーニングを終えた串崎さんが、そこで習ったニコラさんというMovement講師と私がコラボのワークショップをしたら面白いんじゃないかと企画してくれたクラスが、今年9月にあります。

串崎さんは、元々土建関係で仕事をしていた方で拠点は福岡で、欧州トレーニングの卒業生というこれまでのロルファーとはひと味もふた味も違う経歴です。渡辺有子さんからロルフィングを受けてロルファーを目指すことになったようですが、その時に私のイールドワークを耳にして、認定後何度か私のRolf Movement認定クラスに参加してくれています。その彼の発案での企画なので、私自身ニコラさんと面識もなく、今から楽しみです。

 ニコラさんは、現役のダンサーで振付もされていて、ドイツ、イタリアで活動されていたとのことで20年以上のキャリアがあるそうです。そんな彼も私のイールドと間に関する機関誌の私の記事を読んで興味を示してくれてとのこと。まるで演劇のようなクラスと称される新進気鋭のムーブメント講師との共演が今から楽しみです。

ロルファー、SIプラクティショナー、ピラティス、ジャイロトニクスなどの講師業のみならず、ダンサーなどのパフォーマーにも開かれたクラスです。

そして、通訳は、ヨガ講師、NHKの語学講座のプロデューサーでもある才媛、古川智美ロルファーにお願いしています。

詳細お申込みは、以下参照。

Em-BodyOrient/Occident東洋と西洋の体現

越えてはいけない線

治療、カウンセリングなど人を援助する仕事はすばらしい。だけど、それに付け入る悪者もいる。食や医療、すべて命に関わることなので、需要は常にある。となるとそのサービスを受ける側になると、立場的に供給側より弱い立場になりやすい。治療などの援助職の人間に何らかの形で助けられた場合、当然恩義や感謝も感じるが、その治療の結果によって、施術者との関係が微妙に変化する。その効果だけではなく、一旦プライパシーに関わるような情報を施術者に託していることになるので、もし、万が一施術者にモラルがないとすると、その観点から弱みを握られていることになる。 治療を提供する側と受ける側の対等性は、あくまで、施術者に倫理感がその責任と共に備わっているということが前提になる。

悪人や詐欺師というのは、常に存在するもので、何か立場を利用して人の隙につけこんでくる。治療家として腕はいいが、クライアントをプライベートで誘ったり、次々に関係を結ぶようになったら、プロフェッショナルではない。アウトである。人格や品格がないとしても、難病をちょっと治したりするようなことは、ブラックマジックである程度可能だ。詐欺やブラックマジックは、普遍性のある癒しとは異なるので、何かその前後で問題が生じたり、治った人の周囲が何らかの犠牲を伴ったりと、全体としての統合ではなく、覚めてわかるのだが、周囲も取り込んでの集団催眠のようなもの。いずれにしても、自然の摂理に反しているので、後からボロがでてきて、矛盾点も浮き上がる。

病気を治すような力があるとしても、真の癒し手であれば、プロとしてのモラルが伴っている。成果が上がってきても、その力は受け手にあると理解していれば、自惚れることもないし、自分以外のやり方を排他的に吹聴する必要もない。

成果を上げているとしても、施術者自らの欲を見つめ、行為の動機をチェックする必要がある。


分けて考える

日本人の傾向として分けて考えるのが苦手だと思う。

先日の電気グルーブやその他音楽や芸術の作品と個人の行動は分けて考えることができれば、作品自体の販売を制限するようなことはしないだろう。政治をとっても例えばフランスの大統領が不倫をしたとしても、ゴシップ三流紙は別として個人的メディア攻撃もなく、政治を評価して失墜に追い込むようなことはしない。権力側が仕掛ける個人攻撃(例:前事務次官の前川氏への個人攻撃)や、不可解なタイミングと異常な割合で割かれるゴシップ報道によって、目を向けるべき問題や大切なことを考える時間が削がれていないかチェックする必要がある。

そこには、人間は完璧なわけではないので、いろいろ間違いや失敗はあるけれどもやることをやっていれば、それでいいじゃないか、というおおらかさが根底に在るような気がする。

その罪が凶悪な犯罪性を持っていれば別だが、世間をお騒がせしているのは、マスメディアであって、本人ではないのに、いちいち謝るのもおかしい。

例え、間違いを起こしたとしても、音楽を製作し、作品が優れていれば、誰が作っていようと芸術はそれでいい。肩書きが立派な御仁がつくり奏でる愚作にこそ意味がない。

もし、音楽作品と制作に関わる個人とを常に関連づけるのであれば、ジョンレノンのソロ作品はどうなるのだろう? ジョンのソロ作品に大きな彩りを添えたフィルスペクターという名プロデューサーは、殺人犯として逮捕されている。だからといって、海外で作品の発売には全く影響はない。

人にはいろいろ間違いがあるのだから、それを容認して、作品や仕事そのものを個人とは切り離して評価する見識が文化には必要不可欠だと思う。

でなければ、政治はいつも泥仕合で先に進まず、芸術や科学も新規性やオリジナリティのない面白くないものになってしまう。

空間を操る?!

今、クライマーの方がセッションを受けにきています。10回シリーズを終えて、Advanced 5シリーズを開始中です。

腸腰筋を中心的に扱うセッションでしたが、大きな気づきがあったようで、セッション終盤、

“空間を操ることができれば、身体を自由に扱えるような気がした。”

とのコメント。自由の意味の幅はさておき、正に今自分が取り組んでいることでもあるので、

’その通りだと思います。’

とお応えしました。

空間に意識を向けるとそのやり方によって、身体に変化が還元されるということを実感されたのだと思います。

身体への定義や捉え方、つまりパラダイムがシフトしたのだと思います。セッションが益々面白くて仕方がない様子でした。

スーパーポジティブの危険性

様々な自然療法や代替医療の中には、インチキや怪しいものも多いが、その中にもその人にとっては有効な方法が少ないながらも存在する。

例えば薬の治験で、統計的な優位差があるから、薬として認可されているわけだけれども、優位差があるというだけで、有効とはならないパーセントもバカにならず高い。何割かは有効だからといって、それが自分に当てはまるわけではなく、全体の数字からは何パーセント有効かもしれないけど、個別にみると、効くか効かないかの2択になる。

であるから、統計的な優位差があるオーソドックスな医療もそれが確実性があるわけではなく、常に自分で判断するしかない。

では、非オーソドックスな治療法に出会ったときにそれを見極めるにはどうしたらいいのだろう?

たとえば、それが腫瘍だった場合には、実際にそれが退縮しているかどうかを、思い込みではなく、機器でチェックする以外には確かな評価はできない。

何か狂信的にその治療家を信じ切って、腫瘍マーカーやMRI、エコーによってその腫瘍が実際に縮小しているのを確認してはじめて、その方法が合っているのかどうか判断できる。

しかし、それを放棄して、診断方法によって被爆するからとの理由で、他の客観的な評価をしないことにするのは、とても危険な姿勢だ。

それが本当の治癒に向かっているのであれば、あらゆる方向からチェックしてそれを判断しなければならない。そうしないと、なんだかわからないまま、その怪しい治療家の思想を鵜呑みにして、思考停止のまま、後から後悔することになる。

バイデジタルOリングテストの医師達は、それが非侵襲的で正確な診断ができることを知りながらも、最新機器による診断を併せて行って、何重にもチェックを怠らない。そのおごらない姿勢こそが正しく、信頼できる。

診断方法によって、X線や、磁気の影響は多少あるとしても、診断を放棄するリスクの方が遙かに高い。

最悪の状況を想定して危機管理する一見ネガティブに見える冷静な視点を忘れてはならない。誰しも嫌なことを考えるのは避けたいが、その影の部分を本人もどこかで気になっているはずなのに、それを見ないようにして、スーパーポジティブになっている状態は、傍目からどこか違和感があり、危険である。

どんな生き方や死に方をしても人は自由だけれども、騙されたまま一生を終えるのは避けたいものである。