嫌がらせやいじめを受けるということ

父は大動物を実験対象とした研究職についていたが、観察していると、新入りの牛は、元からいる牛たちに突かれたり、グイグイされたりして、いじめのようなことを必ず受けるらしい。本能的に群れの中で異質なものを見つけたときに、動物的にはそれまでのパワーバランスを維持するために、マウンティングしたり、いじめてみたりという行為は、ある意味自然に起こり得るということになる。

学校のいじめ問題も、いじめはない、と学校側が責任逃れのためにコメントしたりするが、そもそもいじめるような行為が起こる可能性を否定しては先に進まない。

それより、忘れてならないのは、異質なものに対して、まず群れは排除しようとしたり、何らかの力を示して、力関係の下位に位置づけようとすること。だから、その個人がユニークさを持っていたり、他より抜きん出て目立つような特質を持っている場合には、そうでない大多数は、本能的に存在に対して脅威に感じ、何とか叩こうとするのは、動物行動パターンとしては特別なことではないというこどになる。

個性的であったり、何らかの才能がある場合は、群れの中の一個では力がないため、群れをなして、嫌がらせやいじめを行使するのは、動物ではありがちなことといえる。そうした動物的行動的衝動は、人間としての知性や道徳感によって抑制されるべきであるが、本能的にはそのような行動パターンがあらわれやすいといえる。

であるから、不当に嫌がらせを受けたり、群れでいじめを体験したことがあるなら、裏を返せば、その個人には集団にはないユニークさや才能があるということになる。何の才能もユニークさがなければ、いじめの対象にもならない。

悪いことだと分かっていても、いじめに賛同したり嫌がらせした人間の心には、そうした行為の記憶が澱のように心の奥底に堆積して、必ず何か健康や人生に影を落とすに違いない。それがカルマというものだ。