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rolfinger について

米国Rolf Institute認定ロルファー&ロルフムーブメントプラクティショナー。

Rolf Institute機関誌最新号の掲載記事

Rolf Instituteの機関誌Structural Integrationの最新号 (2019年夏)に掲載された記事を以下の場所にアップしました。ロルファーである私田畑浩良が、細胞生物学の知見で、ソマティックな領域で使えそうな情報を盛り込んで、体表の捉え方ががらっと変わるような内容になるといいなあと思って書いた記事です。それと、これまでも謎とされてきた、イールドワークの仕組みについても多少なりともの説明になるのではないかと思います。

それと、一次繊毛については以前より注目していて、何らかの形で書いてみたかったので、今回いい機会となりました。

片山洋次郎先生によると、身がまま整体では、
体表からの「気の発散」
を重視するそうです。体表、みなさん思っているより重要に違いありません。

The Superficial Layer as Sensory Envelope: New Perspectives from the Art of Yield About the ‘Superficial’ Sessions of the Rolfing® Series, is available for downloading the PDF.

上記題名をクリックするとPDF化された記事がダウンロードできます。


用語解説

Yielding ゆだねる、あずける動き。発達段階で最初に起こす動きと考えられている。

Keratinocyte 角化細胞 ケラチン生成細胞

Quasi-electrostatic field

準静電界Superficial layer

表層:ロルフィングで用いられる層(Sleeve)より、さらにもっと表層を指しています。

ECM extracellular matrix 細胞外基質:大雑把にいうとfascia筋膜、interstitium間質と同じ。細胞と細胞の間に介在している結合組織のこと。

Anchorage/ scaffoldings 足場、拠り所。細胞培養では、接着できる土台のことを指す。

Naked mole-rat ハダカデバネズミ

Anchorage dependent 足場依存性 正常な細胞は栄養がいくら足りていても、細胞が接着できる足場がないと生存・成長できない性質を持つ。

Contact inhibition 接触阻害 単層培養の場合、細胞が増えて隙間がなくなると、正常な細胞は生育を止める。ガン細胞には上記2つの性質がない。

Kinesphere 身体感覚によって把握できる身体外の空間。気配として感知できる身体外境界。

あるToneに合わせる

ロルフィングは、つないだり、通りをよくしたりと、要するに流れる滞りにくい身体の状態を目指している。重力も波だから、波が伝わりやすい状況を引き出す。

でもその時になんでもかんでも、どんな波長のものでも伝わればいいかというと勿論そんなことはない。身体に伝わる流れや動きは、いろんな波長のものがある。音波もそうだし、音として認識されないような低音もあるだろうし、ハイパーソニック効果を持つような高周波もあるだろう。で、音や振動は一過的かというと、一旦発生した音・振動は、減衰はするものの、それが消えるわけではないという事実。振動は形を変えながら、何かに伝導し続けてどこかで止まることはない。

とにかく、全く消失することはないということ。振動または波動は一つの情報だから、観察者効果が影響する。その音を聞こうと観察者が思った瞬間にその音が存在することになる。

身体をつないだり、滞りがなくなった後で、その中を通ってほしいのは、特定の健全な調子-Toneを持った振動・波動。傷などダメージを受けた組織が再生するには、いつまでも病変としてのToneでいるのではなく、そこから元の健全なToneを取り戻す必要がある。

プラクティショナーがもし、その健全な波動をその身体の内側で聴こうとすれば、そこにその波動が戻って姿を現すのかもしれない、という仮定で最近ワークをしている。

ロルフィングは、病気に働きかけるのではなく、健全さに働きかけると言われている。どの調子に合わせようとするのか、ロルファーはどの波長・波動を見つけようとしてワークしているのか、それによってセッションの質が変わってくるはずだ。だとすると、ロルファーの描く、健全さとか、統合とは?という漠然としてはいるけれども、固有のToneがあって、さらにクライアント側にも固有のToneがあって、それが共鳴したり、干渉したりすることで相互作用が生まれ、反応が引き出されるのではないだろうか。

特定の脈動や固定されたToneだと、動的で意味のある共鳴は起きないような気がする。だから、用語は様々だが、いろんなTideや波動を利用するヒーリングアーツが多種あるけれども、プラクティショナーとクライアントにそれぞれ固有のToneに根ざした波動が見いだせないと、意味のある反応は起きないのではないか?という直観がある。

ボディワークでいうところの、LIsteningってかなり深い意味を持っているように感じます。

回を重ねて得られる体験

顧客を依存的に定期利用させる囲い込み的商法は、健全ではありませんが、クライアントが最終的に自力でバランスがとれるような手助けになるようなビジョンの下に、ある時期集中的にセッションを受ける必要性やタイミングはあると思います。

そして、回を重ねないと得られない深い体験も存在します。

以下、10回のロルフィングシリーズ終了後、月一回のペースでお越しになり、17回目にして、初めて感想をお寄せ頂いた内容です。ご本人も初めて素直に感想を伝える気になったので、随分心がゆるんできたとお感じになっているようです。


” 何となく意識が身体の中にようやく納まった感じがしています。
とても新鮮な感じでワクワクしています。
ひと昔前は肉体なんてなくて、意識だけだったら、もっと楽で楽しいのになぁって思っていたので、自分にとっては初めての感覚楽しんでます。
”  

感想全文

感じる、感覚についての用語 

「感じる」と日本語の言葉に対して、英語にはいろんな種類の感じるが存在する。身体の感覚を扱っているが、英語ではいろんなニュアンスを使い分ける単語が多いため、漠然としがちなので、一旦整理してみよう。日常会話的に用いられている意味とは別に、ソマティックプラクティスで用いられる場合の意味として捉えて下さい。

feeling : 主観的なからだの生理的な状態と密接に関係した「気分」「情動」のこと。

interoception : 内的感覚。からだの内側で起こっている反応を通じての感覚。

feelとは、このinteroceptionについて尋ねるときの言葉と思っていいでしょう。

それに対して、exteroceptionという言葉があります。

exteroception: 外受容と辞書にあります。外的な刺激に対しての感じ取り方。

sensation: 主に五感の感覚器の反応。その外部からの刺激の受け取り方。ただしその刺激が何であるかという認識までは含まない。その刺激をそう感じるところまでの段階。

したがって、exteroceptionについて、尋ねるときには、sensationを使います。

perception : 知覚・認識。sensationを通して得た情報を経験を通して解釈して、それが何であるかを認識すること。様々な外からの刺激があるが、それをどのように受け取っているか、掴んでいるかは、perceptionである。sensationがなければ、perceptionもないことになります。

これらを踏まえて、重要なのは、feelingやsensationを通して得られた情報をinteroceptionに落とし込むことです。様々な感覚を統合して認知する機能が脳にはありますが、その認知様式には、エラーも含まれていますが、ほぼ自動的に反応していしまいがちです。それらを大脳皮質の処理に任せっきりにしてしまうのではなく、その感覚を一旦、interoception特に内臓感覚で感じて、整合性を確認してみること。つまり、それが腑に落ちる感じにつながるのか、それとも、何か違和感として感じられるのか、行動を決める時の大きな指針になります。一般には、感覚→知覚→認知という作業は大脳の高次?の機能で統合されていることになっていますが、肚つまり内臓感覚がそこに関与しないのは経験的に違和感があります。

ですから、在り方としては、常に様々な刺激にオープンでいながらも、それらを内的な感覚で、主観的には自分がどう感じているのかを常に感じることを自分に許可しておくことが大切だと思います。いいものを見聞きして、美味しいものを食べるというような5感を刺激することは大切ですが、その刺激を自分の内側は主観的にどう感じているのか?言葉を換えればそれが、からだの声を聴くということにつながります。それをしない限り、情報や一般の評価に合わせた感じ方・捉え方になってしまい、本当は自分がどう感じているのかが、分からなくなってしまいます。それは主体性を放棄する第一歩です。大多数迎合の気運が高まる中、別に声を上げなくとも、自分が正しいという選択を静かにしているためにも、interoceptionを大切にすることには大きな意味があります。からだの声やサインを無視しなければ、いたずらに健康を害することはなくなるはずです。

ロルファー田畑浩良の私見と主観に基づいているので、ここで書かれてことを鵜呑みにせず、ご自分の身体感覚を通して、実験・体感して検証してみてください。

いくらトレーニングしてもできないこと

身体系のプラクティショナーにセッションをお願いするときに大切になるのは、技法やスキル以外にその前提として、触れられても大丈夫な感じがするのかどうか、相性ともいえるが、理由がはっきりしているわけではない感覚。施術される場所に抵抗なく、気が向くのか、向かないか、そのプラクティショナーに自然に身体が向くのか、それとも向かないのかは、頭ではないあくまで肚の感覚である。それが一番確かなのだ。

触れられることに、敏感なタイプがいる。身体について感受性がある程度育っていると、プラクティショナーの思惑や圧迫感、こうあるべき、という意図が強すぎる場合、それを感知した身体は何かしら警戒モードにスイッチが入る。クライアントの方から耳にする少なくない声として、マッサージや治療院にいって雑に扱われたことが、いかに自分にダメージを与えていたか。ロルフィングのシリーズ途中でそのことに気づくクライアントもいる。雑だなあとどこかで分かっていても、さもそれが受け手側に問題があるかのように錯覚しがちだが、受ける側に問題があるのではなく、プラクティショナー側の声なき雑音やこうなって欲しい、こうあるべきという圧力・思い込みが強すぎるのである。

認定トレーニングをしていると、ロルファーの中にもかなりタッチに対して敏感なタイプが存在する(私も含めて)。実習中、交換セッションする際に、組合せがうまくいっていないと、稀に受け手として、タッチを含む介入を一切受け付けないシャットダウンした状況になることがある。欧州ではこれをCookingと呼んでいるそうだ。呼称が存在するということは、それ程珍しいということではないのだろう。セッションを成功させるには、Cookingはできれば経由せずに進みたいところであるが、このCookingを誘発しやすいか、誘発しにくいのかは、決して上級トレーニングを終えたかどうか?とか、ソマティック・エクスペリエンスを学んでいるかどうか?は実際のところ関係ないようだ。訓練では培えない部分なのだ。

だが一方で、このCookingを誘発しにくいタッチを持つロルファーは何人か知っている。その一人は、福岡でプラクティスされている串崎昌彦さんである。彼はこれまでの日本のロルファーにあまり見ないタイプのユニークな人材である。受け手として触れさせてもいいロルファーがかなり限定される相手であっても、彼のタッチは、Cookingを誘発しないことを、数回の認定クラスで観察してきた。

彼はロルフィングのキャリアとして経験年数が長いわけでもないが、彼のタッチは特A級に安全なのだ。それがどこに起因するのか、不思議であるが、考えてみれば触れるという動作は、トレーニングが終わってから始めたわけではなく、それまで、どう手を通して、世界を感じてきたのか、という長いスパンで培われてきたものであるから、ロルファーとしてのキャリア以前の生き様が関係しているに違いない。これが不思議なことに長年ソマティック・エクスペリエンスを実践してきたセラピストの方や、10年以上のロルフィングのキャリアがあっても、Cookingを誘発してしまった例を何度か目にしたり耳にした。我々が、セッションする時のコミュニケーションは、表面のやり取りからは見えない意識下のところで進行しているというが、それは一見したところではわからないようだ。

なので、受け手として、そのプラクティショナーの華々しい経歴や資格とは関係なく、タッチや間合いを身体が安全でないと感じたのであれば、そこは無理をせず、苦手克服の視点ではなく、思い切ってプラクティショナーを代える選択をした方がいい、ということになる。

こういう私もかなりタッチの安全さには自信があるのだが、今まで一人だけ、Cookingを誘発してしまったクライアントがいる。ロルフィングの10シリーズの時には問題なかったのだが、Somatic Experiencingのセッションで頭をタッチしている時にそれが起きた。セッションの性質によるものか、触れた場所に対して、タイトレーションができていなかったのかもしれない。このCooking現象に関しては、欧州の講師らとも交流することでより学んでいきたいと思う。

最近、10シリーズを別のところで終えた後、すぐ10シリーズを受け直したいという方がいらしているので、ロルファー田畑浩良の私見と主観から、相性問題、安全なタッチを考察してみました。

追記:今年の春のロルフムーブメント認定ワークショップに参加頂いた、大坂でプラクティスされている佐藤正治さん、名古屋の茂利尚子さん、東京の楠美奈生さん、大久保圭祐さんもかなりいい安全なタッチを持っています。

身体を自分が思ったように動かす

中高生の野球で投球数規制が話題になっている。そもそもスポーツは、楽しみと健康のためにあると思っているが、本人の身体の健康が優先されずに故障することがあるのは残念なことだ。なぜ、肘のみならず。、故障してしまうかというと、スポーツ選手が自分の中のイメージの身体の使い方と、実際の動きとの間にズレがあることが原因である。身体と意識(頭)が一致していないという言い方もできる。専門用語でいうとプロプリオセプション -固有受容、位置覚とも訳されるが、つまりは、身体のパーツがどこにあるのかを感じ取る感覚で、目をつぶっても立っていられるのは、筋肉や腱などに埋め込まれたプロプリオセプターというセンサーの働きのお陰なのだ。

自分の身体のパーツがどこにあるのか、関節と関節との位置の関係性を時々刻々とモニターできれば、頭で思っている動きと実際の動きに差がなくなる。それができれば、痛めないような動きにもつながっていく。ロルフィングの大きな仕事の一つは、プロプリオセプションの働きを高めることによって、身体と一致するのをサポートすることである。

このことの重要性を武井壮氏が、彼の講演の中で語っている。

競技者が長くそのスポーツを楽しめるようにするには、様々な方法があるが、プロプリオセプションの能力を上げて、身体をできるだけ思ったように動かせる状態を土台にすることが不可欠だ。

競技者が、本当にそのスポーツを愛しているなら、競技寿命をできるだけ延ばしたいはず。怪我の予防にも使えるので、ヒモトレやロルフィングをはじめとした様々なソマティック・プラクティスを、もっとスポーツに取り入れることをお勧めする。

https://youtu.be/ol3HeIACFy0?t=625

交通事故の体験

歩行中よそ見運転の車に追突され、身体からちょっと出たことがある。今から42年前、中学3年の7月31日だった。
追突され宙にに舞ったらしいが、その時できすぎなくらいよくできた画面のスクリーンメモリーもちょっとだけ見た。走馬灯を生まれるまで眺めたら、多分戻って来られないのだろう。

身体と自分が完全に分離して、遠くで身体が口を通して実際に「痛いよ〜、痛いよ〜」と叫んでいたのだが、自分の意識は別のところからそれを聞いていた。

“自分の意識”が身体の中にふと戻ると、全く痛みは感じず、強打した大腿部は麻痺して動かなかった。右手に二カ所かすり傷があって、出血していたけど、その痛みは不思議なくらい感じなかった。

なんで身体は痛がっていたのに、離れていた”自分”は痛くないのか気味が悪かった。次の日出場予定の卓球の県大会に行けそうなくらい気持ちはケロッとしていたけど、左脚は全く動かなかった。身体の自分と意識の自分はどちらも自分だけど、それぞれ完全に別だった。

そこから、身体のバランスを意識するようになった。ロルファーになる最初の大きなきっかけになった出来事だった。

オリジナリティ

斬新なアイディア、先駆的な発明、本当の意味で新しい曲、唯一無二な独創的なものであればあるほど、人気は出にくい。理由の一つに、まずその意味を理解する受け手がそのタイミングではいないこと。そして、そのような斬新なものを生み出す芸術家や研究者は、どちらかというと、広めたりうまく伝ようというエネルギーを使うことにはあまり関心がない。巷で売れたり流行するためには、この多数に「わかりやすい」という性質が不可欠になる。わかりやすいとは、どういうことかというと、 どこか馴染みのある、持ち合わせの知識や情報で何となく、その印象をつかみ易いということになる。その対象が、オリジナルであればあるほど、取っつきにくくなるので、最初にでた斬新なものより、何となく耳にしたような旋律が含まれるようにアレンジされていたり、ちょっと知っている感じが微妙に混ざっているものが、耳辺りがいいし、親近感が湧きやすい。

だがそもそも既存のものと混ぜている時点で、オリジナルではなく、結局はコピーの寄せ集めミックスなのだ。実際は、その原点のいいところをうまく取り入れて、わかりやすく加工したものが、広まりやすく、いつの間にか主流のようになっていることがある。それがいいものであれば、いいじゃないか、という乱暴な声も聞こえてきそうだが、問題は、その出典が明らかになっているかどうかである。モノは確かにいいけど、じゃあ元ネタはなんなのか? それを最初に生み出したのは誰で、それを学ぶにはどうしたらいいのかが、明確に示されていれば問題ない。後から、そのことに深く学びたいと思った人が、きちんと元を辿れるからである。その元にはどうしても言葉では伝わらないエッセンスが存在する。それを最初に採用する場合は模倣-真似から入るので、スタイルや外見は「〜風」でよく似ている。オリジナルとその開発者をリスペクトする形で引用を忘れずに、純粋に広めようとする人達は確かに存在する。そして、それらをレビューすることも立派な仕事である。けれども、良識がない多数派は言ったもん勝ち、売れたもん勝ち、つまり、勝てば官軍の発想で、結局モラルがないから、当人が出典を明らかにせずにむしろ隠すことによって、さも自分が創り出したように繕ってしまい、後から学ぼうとする人達が、それについて源流に辿ることや深く学ぶことができなくなってしまう。しかもそういった輩は、嫉妬深い性質も相まって、益々隠蔽や策を弄することをやりがちなのだ。

研究する上で、遡れない、深く学べないという弊害だけではなく、そのオリジナルではない後発模倣品の方が主流で売れてしまうとなると、一流のオリジナルの作品やアートに対して、きちんと敬意を払って、それに見合うお金を支払うという当たり前の姿勢がなくなり、結果いいもの、一流のものを残し育てる文化がなくなってしまう。何かを深く学ぼうというときに、創始者でなくとも、本質を理解し、源流を学べる場かどうかを嗅ぎ分ける鼻を持っていたい。

日本を含むアジア圏は、欧米に比べ、オリジナリティに敬意を払う価値観が育っていない。さらに日本独自の優れたものより、未だ舶来主義が残っていることが、ますます拍車をかけているように感じる。オリジナリティに敬意を払うということは、個人のユニークさを尊重するということとペアになっていることのように思う。

身体の捉え方・認識を変える

骨は固い、筋肉も常に固い、固い身体は変わらない、ずっと変わらない、という思い込みからしか身体を捉えられないと、当然それが動きや在り方に影響する。ロルフ博士は、その”身体は変わらない”と考えられていた概念を、Body is plastic ! 身体は変わり得るもの、と言葉にして、それをロルフィングのワークによって体現した。

なんとなく大多数が思っているところには必ず盲点がある。

音は振動であるから、皮膚もまたその振動を感じている。ということは皮膚も聴いているという表現も成り立つ。”音”として認識しているかは別として、振動は細胞全体に届いている。細胞に一本づつある繊毛の揺れとして受け止めたり、細胞の中にある細胞骨格の揺れもあるだろう。細胞はたえず内側の動的なダイナミクス、つまり”動いている”必要がある。そのために細胞外マトリックスや隣接の細胞と相互作用することで動きを生み出し、その物理刺激が生存と成長にとって必須となる。

だから、すべての組織や器官は、物理的な動きとしての振動を受け容れ、そして外側に伝えたり双方向にやり取りをしていることになる。この全体の振動板・振動子としてより響きあうことができれば、それがつながりや連携を生む。

恐らく、ある種のサウンドが癒しをもたらすという原理は、音波を使って、身体の組織が固まってフリーズしているところに振動が伝わることで、動きが生まれると共に活性化されることが、回復へのプロセスを進めることになるのではないと推測する。

耳だけが聴いているのではなく、身体の皮膚も聴いていると思うだけで、音に対しての認識や皮膚で聴こうとするだけで、身体の音への反応も変わり、そうすると空間認識も変わってくる。

その器官が習った通りの機能しかしていないという狭い捉え方をしている限り、可能性は広がらない。だが、様々な可能性と共に身体を捉えるてみると、知覚が変わり、世界も違った感じに見えてくる。

ロルファー変えた方がいいですか? の続き

先程の場合は、ロルフィングをシリーズで受けている場合でしたが、シリーズを一通り終えての場合はどう考えたらいいでしょうか?ロルファーは人間ですので、いろんなバックグラウンドと身体の見方、そして、健康に対しての捉え方、統合とはどんな状態と考えているのか?が、無意識に反映します。だとすると、受け手の身体を一人のロルファーが、すべてバランスよく総合的に捉えることができるのか?というと言うまでもなく限界があります。

別のロルファーだからこそ、気づけることがあります。そうやって考えるとロルファーも楽です。自分が提供できることに専念集中できるし、全部やろうとしなくていい。勿論できないわけですから。ご自分が気になるロルファーからセッション受けるのはいいことだと思います。そうやって様々な観点からいろんな角度でアプローチしてもらうことで、全体の統合が進みます。ある時点では、ロルフィング以外のプラクティスがぴったり合っているタイミングがあるかもしれません。

ただ、そのロルファーからのロルフィングでうまく改善・達成できなかったからといって、ロルフィング自体にに限界を感じる前に、別のロルファーからもセッションを受けてみてほしいなあと思います。ロルフィングに限りない可能性を感じている私としては。

様々な良質のセッションを受けるというのは、自分への投資とWell-beingの追求であって、セラピーをどうどう巡りするジプシーとは一線を画す立ち位置です。

その動機が、探究心から来ているのか、それとも依存心からきているのか?、それは信頼できるプラクティショナーと「いい距離感・いい間合い」があるかどうか?ということにつきると思います。