オリジナリティ

斬新なアイディア、先駆的な発明、本当の意味で新しい曲、唯一無二な独創的なものであればあるほど、人気は出にくい。理由の一つに、まずその意味を理解する受け手がそのタイミングではいないこと。そして、そのような斬新なものを生み出す芸術家や研究者は、どちらかというと、広めたりうまく伝ようというエネルギーを使うことにはあまり関心がない。巷で売れたり流行するためには、この多数に「わかりやすい」という性質が不可欠になる。わかりやすいとは、どういうことかというと、 どこか馴染みのある、持ち合わせの知識や情報で何となく、その印象をつかみ易いということになる。その対象が、オリジナルであればあるほど、取っつきにくくなるので、最初にでた斬新なものより、何となく耳にしたような旋律が含まれるようにアレンジされていたり、ちょっと知っている感じが微妙に混ざっているものが、耳辺りがいいし、親近感が湧きやすい。

だがそもそも既存のものと混ぜている時点で、オリジナルではなく、結局はコピーの寄せ集めミックスなのだ。実際は、その原点のいいところをうまく取り入れて、わかりやすく加工したものが、広まりやすく、いつの間にか主流のようになっていることがある。それがいいものであれば、いいじゃないか、という乱暴な声も聞こえてきそうだが、問題は、その出典が明らかになっているかどうかである。モノは確かにいいけど、じゃあ元ネタはなんなのか? それを最初に生み出したのは誰で、それを学ぶにはどうしたらいいのかが、明確に示されていれば問題ない。後から、そのことに深く学びたいと思った人が、きちんと元を辿れるからである。その元にはどうしても言葉では伝わらないエッセンスが存在する。それを最初に採用する場合は模倣-真似から入るので、スタイルや外見は「〜風」でよく似ている。オリジナルとその開発者をリスペクトする形で引用を忘れずに、純粋に広めようとする人達は確かに存在する。そして、それらをレビューすることも立派な仕事である。けれども、良識がない多数派は言ったもん勝ち、売れたもん勝ち、つまり、勝てば官軍の発想で、結局モラルがないから、当人が出典を明らかにせずにむしろ隠すことによって、さも自分が創り出したように繕ってしまい、後から学ぼうとする人達が、それについて源流に辿ることや深く学ぶことができなくなってしまう。しかもそういった輩は、嫉妬深い性質も相まって、益々隠蔽や策を弄することをやりがちなのだ。

研究する上で、遡れない、深く学べないという弊害だけではなく、そのオリジナルではない後発模倣品の方が主流で売れてしまうとなると、一流のオリジナルの作品やアートに対して、きちんと敬意を払って、それに見合うお金を支払うという当たり前の姿勢がなくなり、結果いいもの、一流のものを残し育てる文化がなくなってしまう。何かを深く学ぼうというときに、創始者でなくとも、本質を理解し、源流を学べる場かどうかを嗅ぎ分ける鼻を持っていたい。

日本を含むアジア圏は、欧米に比べ、オリジナリティに敬意を払う価値観が育っていない。さらに日本独自の優れたものより、未だ舶来主義が残っていることが、ますます拍車をかけているように感じる。オリジナリティに敬意を払うということは、個人のユニークさを尊重するということとペアになっていることのように思う。