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交通事故の体験

歩行中よそ見運転の車に追突され、身体からちょっと出たことがある。今から42年前、中学3年の7月31日だった。
追突され宙にに舞ったらしいが、その時できすぎなくらいよくできた画面のスクリーンメモリーもちょっとだけ見た。走馬灯を生まれるまで眺めたら、多分戻って来られないのだろう。

身体と自分が完全に分離して、遠くで身体が口を通して実際に「痛いよ〜、痛いよ〜」と叫んでいたのだが、自分の意識は別のところからそれを聞いていた。

“自分の意識”が身体の中にふと戻ると、全く痛みは感じず、強打した大腿部は麻痺して動かなかった。右手に二カ所かすり傷があって、出血していたけど、その痛みは不思議なくらい感じなかった。

なんで身体は痛がっていたのに、離れていた”自分”は痛くないのか気味が悪かった。次の日出場予定の卓球の県大会に行けそうなくらい気持ちはケロッとしていたけど、左脚は全く動かなかった。身体の自分と意識の自分はどちらも自分だけど、それぞれ完全に別だった。

そこから、身体のバランスを意識するようになった。ロルファーになる最初の大きなきっかけになった出来事だった。

オリジナリティ

斬新なアイディア、先駆的な発明、本当の意味で新しい曲、唯一無二な独創的なものであればあるほど、人気は出にくい。理由の一つに、まずその意味を理解する受け手がそのタイミングではいないこと。そして、そのような斬新なものを生み出す芸術家や研究者は、どちらかというと、広めたりうまく伝ようというエネルギーを使うことにはあまり関心がない。巷で売れたり流行するためには、この多数に「わかりやすい」という性質が不可欠になる。わかりやすいとは、どういうことかというと、 どこか馴染みのある、持ち合わせの知識や情報で何となく、その印象をつかみ易いということになる。その対象が、オリジナルであればあるほど、取っつきにくくなるので、最初にでた斬新なものより、何となく耳にしたような旋律が含まれるようにアレンジされていたり、ちょっと知っている感じが微妙に混ざっているものが、耳辺りがいいし、親近感が湧きやすい。

だがそもそも既存のものと混ぜている時点で、オリジナルではなく、結局はコピーの寄せ集めミックスなのだ。実際は、その原点のいいところをうまく取り入れて、わかりやすく加工したものが、広まりやすく、いつの間にか主流のようになっていることがある。それがいいものであれば、いいじゃないか、という乱暴な声も聞こえてきそうだが、問題は、その出典が明らかになっているかどうかである。モノは確かにいいけど、じゃあ元ネタはなんなのか? それを最初に生み出したのは誰で、それを学ぶにはどうしたらいいのかが、明確に示されていれば問題ない。後から、そのことに深く学びたいと思った人が、きちんと元を辿れるからである。その元にはどうしても言葉では伝わらないエッセンスが存在する。それを最初に採用する場合は模倣-真似から入るので、スタイルや外見は「〜風」でよく似ている。オリジナルとその開発者をリスペクトする形で引用を忘れずに、純粋に広めようとする人達は確かに存在する。そして、それらをレビューすることも立派な仕事である。けれども、良識がない多数派は言ったもん勝ち、売れたもん勝ち、つまり、勝てば官軍の発想で、結局モラルがないから、当人が出典を明らかにせずにむしろ隠すことによって、さも自分が創り出したように繕ってしまい、後から学ぼうとする人達が、それについて源流に辿ることや深く学ぶことができなくなってしまう。しかもそういった輩は、嫉妬深い性質も相まって、益々隠蔽や策を弄することをやりがちなのだ。

研究する上で、遡れない、深く学べないという弊害だけではなく、そのオリジナルではない後発模倣品の方が主流で売れてしまうとなると、一流のオリジナルの作品やアートに対して、きちんと敬意を払って、それに見合うお金を支払うという当たり前の姿勢がなくなり、結果いいもの、一流のものを残し育てる文化がなくなってしまう。何かを深く学ぼうというときに、創始者でなくとも、本質を理解し、源流を学べる場かどうかを嗅ぎ分ける鼻を持っていたい。

日本を含むアジア圏は、欧米に比べ、オリジナリティに敬意を払う価値観が育っていない。さらに日本独自の優れたものより、未だ舶来主義が残っていることが、ますます拍車をかけているように感じる。オリジナリティに敬意を払うということは、個人のユニークさを尊重するということとペアになっていることのように思う。

身体の捉え方・認識を変える

骨は固い、筋肉も常に固い、固い身体は変わらない、ずっと変わらない、という思い込みからしか身体を捉えられないと、当然それが動きや在り方に影響する。ロルフ博士は、その”身体は変わらない”と考えられていた概念を、Body is plastic ! 身体は変わり得るもの、と言葉にして、それをロルフィングのワークによって体現した。

なんとなく大多数が思っているところには必ず盲点がある。

音は振動であるから、皮膚もまたその振動を感じている。ということは皮膚も聴いているという表現も成り立つ。”音”として認識しているかは別として、振動は細胞全体に届いている。細胞に一本づつある繊毛の揺れとして受け止めたり、細胞の中にある細胞骨格の揺れもあるだろう。細胞はたえず内側の動的なダイナミクス、つまり”動いている”必要がある。そのために細胞外マトリックスや隣接の細胞と相互作用することで動きを生み出し、その物理刺激が生存と成長にとって必須となる。

だから、すべての組織や器官は、物理的な動きとしての振動を受け容れ、そして外側に伝えたり双方向にやり取りをしていることになる。この全体の振動板・振動子としてより響きあうことができれば、それがつながりや連携を生む。

恐らく、ある種のサウンドが癒しをもたらすという原理は、音波を使って、身体の組織が固まってフリーズしているところに振動が伝わることで、動きが生まれると共に活性化されることが、回復へのプロセスを進めることになるのではないと推測する。

耳だけが聴いているのではなく、身体の皮膚も聴いていると思うだけで、音に対しての認識や皮膚で聴こうとするだけで、身体の音への反応も変わり、そうすると空間認識も変わってくる。

その器官が習った通りの機能しかしていないという狭い捉え方をしている限り、可能性は広がらない。だが、様々な可能性と共に身体を捉えるてみると、知覚が変わり、世界も違った感じに見えてくる。

ロルファー変えた方がいいですか? の続き

先程の場合は、ロルフィングをシリーズで受けている場合でしたが、シリーズを一通り終えての場合はどう考えたらいいでしょうか?ロルファーは人間ですので、いろんなバックグラウンドと身体の見方、そして、健康に対しての捉え方、統合とはどんな状態と考えているのか?が、無意識に反映します。だとすると、受け手の身体を一人のロルファーが、すべてバランスよく総合的に捉えることができるのか?というと言うまでもなく限界があります。

別のロルファーだからこそ、気づけることがあります。そうやって考えるとロルファーも楽です。自分が提供できることに専念集中できるし、全部やろうとしなくていい。勿論できないわけですから。ご自分が気になるロルファーからセッション受けるのはいいことだと思います。そうやって様々な観点からいろんな角度でアプローチしてもらうことで、全体の統合が進みます。ある時点では、ロルフィング以外のプラクティスがぴったり合っているタイミングがあるかもしれません。

ただ、そのロルファーからのロルフィングでうまく改善・達成できなかったからといって、ロルフィング自体にに限界を感じる前に、別のロルファーからもセッションを受けてみてほしいなあと思います。ロルフィングに限りない可能性を感じている私としては。

様々な良質のセッションを受けるというのは、自分への投資とWell-beingの追求であって、セラピーをどうどう巡りするジプシーとは一線を画す立ち位置です。

その動機が、探究心から来ているのか、それとも依存心からきているのか?、それは信頼できるプラクティショナーと「いい距離感・いい間合い」があるかどうか?ということにつきると思います。

私のRolfing®(ロルフィング®)の視点

いくつかのモジュールに分ける

 他人任せではなく、自力で何とかバランスできる身体を取り戻すには、土台をしっかり築く必要があり、それなりのプロセスが必要です。基本的には建物と一緒で、土台である足から順番に積み上げていくことで高い統合状態を引き出すことができます。私の観点と解釈でいうと次のようなモジュールに分けられます。統合が進まない場合は、前の段階が満たされているかどうか?総合的にみていく必要があります。

1st モジュール:骨盤をしっかり支えられる脚・足のサポートを充実させる。

背面、前面。側面(外側・内側)の支えを扱います。

下部2軸の充実

2nd モジュール:内臓の容れ物としての骨盤をしっかりさせる

骨盤を多方向から働きかけます。

上部2軸の充実

3rd モジュール:骨盤の中身、内臓空間

下部内臓の流動性と連続性。

2軸の連続性

4th モジュール:骨盤の上に頭がのるように

上部内臓の流動性と連続性。

2軸の接合線としての正中線が現れるのを待つ

5th モジュール:全体の連続性

全体性

2軸の分化と3軸の統合

ゲシュタルトの祈り

ゲシュタルト療法の祖フレデリック・パールズの言葉です。


Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

Frederick Perls
フレデリック・パールズ


これをロルファーとクライアントの関係性に置き換えると以下のような解釈になるかと思います。

ロルフィングの祈り

ロルファーである私は自分のワークを提供する。クライアントの身体は必要な変化を必要なだけ進める。

ロルファーは、身体が望んでいる変化を読み取ろうとするが、表面上のクライアントの主訴に応えるためにワークしているわけではない。そして、クライアントの身体は、施術者の思惑通りに変化するわけではない。

ロルファー、クライアントは別々のシステム。

ロルファーが提供すること、クライアントが望む変化、それがたまたま一致したなら、それは素晴らしいこと。たとえそれが一致しなくても、それはそれで素晴らしいこと。

からだにコンタクトするということ

今セッションにお越しになっている方から、メールにて感想をお送り頂きましたので紹介したいと思います。

ロルフィングはかなり能動的なセッションだということ。主体は受け手で、受け手が自分の体のワークを進めるものであること。(私個人の感想です)
またそれを実際体験してみると、体にコンタクトすることは単に物理的な体や個人の体にとどまらず、
カラダという有機体としての意図や流れの中でのことでもあって、
治す変えるでは得られない全体としての健全性のようなことが、本当に今ここで行われているということを、
頭でなく体で、体の内からの実感をもった体験として知ることができた。
これは、自分の体への何にも基づかない信頼を生み、
少しずつ自分の体との信頼関係を取り戻す過程を始められたように感じる。

手で把握する

先日のRolf Movement®セッションで視覚と身体の連動がうまくないというケースだった。下半身の動きに頭の動きが連動せず、下肢から腰まではつながりがあるが、そこから急に途切れる感じになるという。体験がない人には全く何のことかわからないと思うが、身体の感覚は均等に行き渡っているわけではなく、モザイク状になっていることも珍しくない。その偏差が大きいと、傍からは身体はどこにも怪我や障害がないように見えても、本人の身体感覚は著しい違和感が伴う。

今回のケースは、眼をあけていると情報量が多すぎて、動きが途絶えてしまうので、まず眼を閉じてもらって、安全が確保される状況を創り出す。その時に鍵となったのは、手に動かしたいように動いてもらったことである。

それによって、手の感覚と動きによって、身体の周囲を把握できるようになり、統合への流れができた。

視覚は、どちらかというと後期に発達するので、手の動きや触覚から情報を集めることは、より原初的といえる。手を使うという行為によって、視覚システムがバックアップされ、安定化したのではないかと考察できる。

手を使うということは、何気にすごい意味を持っているのかも知れない。

場面によって介在の仕方は異なる

働きかける場所によって、タッチや介在の仕方を変える必要がでてきます。
でもその判断は、ロジックなものではなく、肚に頼るしかなく、結果からそう思えてきます。

以下ある方のセッション2回目の感想です。

” 左アキレス腱の痛みの部分は、長年違和感がありつつスルーしてきた箇所で、しっかりとフィジカルな体に触れられることで、そこに十分気づきを向けることができ、よりそこへ探求を向ける機会を持てたと思った。

一方右胸肩は、より繊細で深い部分に触れることだった為、もし体に直接触れるサポートであったら、多分TOO MUCHだったように思う。あの時は。
見守られることのこれ以上ないサポートをあの時感じていた。

それがあって、体は体のワークを自ら安心して自分のペースで進められたように感じる。

本当にとても大きな助けだった。”

私自身も場面によって、見守ることがその時必要な介在になることを再確認できました。こうしたフィードバックは、ロルファーの学びを深めてくれます。

広げるということ

援助職業界や健康産業でいうと、たくさんの人が助かった方がいい、というのは通説だと思う。チェーン店や支店を増やすというのも、何らかの益を被る人は、できるだけ多い方がいいという発想。治療院も大きくなると、助手を雇って、人数をこなせるようにする。よく見かけるケースだ。だが、特定の施術者との相性に敏感な場合は、ええっ研修中の実験台になるの?という残念な気持ちになる。

起こりがちなのは、多数派に分類される人達は、その大きな流れにうまく乗って適合するけど、少数派がないがしろにされやすい。大抵の人が大丈夫そうなことでも、特定の人にとっては、過剰に感たり、とてもやり過ごせないこともある。不幸なことに理性が働かない集団の中にいたりすると、多数派にとっては組織の運営上や手間が増える面倒さもあってか、そうした少数派は、悪い意味で特別視され、煙たがられるか、がまんを強いられたりする。

自然に広がっていくのは当然のことだ。いいものは広がり、そうでないものは淘汰される。だが、大勢がいいと感じることが、万人には当てはまらないということを常に意識すべきだ。この治療者によるこの治療法がうまくいくこともある。でも同じ治療法なのに別の施術者との組合せだと成功しないこともある。そして、受け手が別になると、そのやり方自体全く合わないかもしれない。その可能性は常にあるわけだから、万人に効く魔法の術や万能薬は存在しないことになる。

例えば、中医学でいうところの、肺虚に分類される人間は、皮膚への圧力に敏感とされる。全体でいうところの25%の比率で存在する。また、トラウマの種類によっては、触れられることに過敏になっているケースもある。一方で、いくら強く押されてもいいし、できればなるべく強く押してもらった方が、”効く”感じがする人々もいる。有名な施術方法で、かなり圧力を用いる方法で確かにそれによって成果も出ていて実績がある方法もある。だが、どんなにオーソライズされた方法でも、先の肺虚のグループにとっては、ちょっとした圧力でもそれが本人にとっては過剰な刺激になってしまい、別のグループでの反応とは当然異なってくる。

可能な限りの集客を目指す立場にいると、効かない例というのは排除したい心理が働くだろうから、それらを特別なところ、或いはおかしな人達として分類して、別のグループでうまくいった実績のみを持ち出してアピールするかもしれない。薬の臨床試験で75%の治癒効果があるとなると、さも効きそうな印象があるが、25%には効かないので、そのグループに属すると、その薬は無駄かむしろ害になる。その個人にとって、7割5分治るということはないのだ。その薬が合うか合わないかは、常に100か0である。

それと同じ原理で、何かを広げようとしたときに、少数派は無視される傾向にある。

だが、少数であっても、自分に合わないやり方に出会った時、他人がどうであっっても、そのような反応に無理に合わせようとしたり、うまくいかないことを自分の何かが間違っていると考えること自体間違いだ。あたり前だが、感じ方や反応もそれぞれ異なり、人は違うということを忘れてはいけない。小さいものが長いものに巻かれたら、息苦しいだけ。それより、そのメソッドが素晴らしいものであるのなら、より改良される点を残しているということで、それを網羅できれば、全体としても発展する機会を提供することになる。また、創始者や講師が、そのような少数派の反応を無視するとしたら、そのメソッド自体或いは教えるものとしての人格を問う必要がある。

何かいいものが、いい形で広がっていくためには、大きな流れに乗らない、乗れない少数の反応を無視したり取りこぼさないように、それを伝えたり運営する人間は、聞く耳を持って、柔軟に対応していってほしいと切に思う。

私はというと、常に少数派に属しているためか、広げるという方向性に対して、常にうがった見方をしがちである。