ラーニングプロセスとしての守・破・離・傳

熟練の段階には、三つの守・破・離があることはよく知られている。型を忠実に守る段階から、それを独自に改変する段階、そして、型を自在に操り、型から離れる段階へと進むことが、自然な熟練の流れであるとされている。

その先人の深い洞察と普遍性に敬意を示しつつも、私なりの解釈では、それは当人の中での完結であって、循環する流れとして考えると、もう一つ足りないような気がしていた。どんな達人でも個人で帰結してしまうのではなく、大抵の場合、後に続く人々に伝承するというプロセスを通して、その手法なり芸術・芸能が保存されつつ、深化・進化していく。

つまり、全体をつないでいくための、「伝」が存在し、離に達した段階の先達が、原点に戻り、型にあるエッセンスを捉えながら、独自の解釈でその技法を教え伝えることで、先達もまた深くその技法を学ぶことができる。

実際に、「教うるは学ぶの半(なか)ば」:人に教え理解させることは,半分は自分にとっての勉強でもある、という言葉もある。どの段階であっても教えることは人を成長させる。

一旦、守から離れたことで、その技法に深みと立体的な解釈を背景を盛り込みながら、守から出発する後進に教えることができる。

「教」でもいいかもしれないが、教えるだと一方的で上下が意識されるので、ここは対等な学びということで、伝の方が相応しいかもしれない。

とすると、伝・・・傳、これはロルファー串崎昌彦氏がすでに屋号に用いていた漢字ではないか!? Rolfing傳、やられた! 

守・破・離・傳

敢えて、傳を持ち出したのは、守・傳→破→傳というように離に至る前にも傳を行うことが熟練を深めることにつながるからである。巷を眺めると、中途半端な段階で、独自の理論を展開して、新しい手法の名称をつけて、商売を展開するというのはよく目にする。企画力やプレゼン力が伴っていれば、集客もうまくいくだろう。

しかし、ここで曲がりなりにも、サイエンスに関わってきた人間としては、独自の名前をつけてもいいのだでれど、後から学ぶ人がより深く学ぶための情報をしっかり伝えることを怠けたり、意図的に隠していないか?ということにどうしても注意がいく。

オリジナルはクセも強いし理解が難しかったりする。だが、本気で深く学びたいという人間にとっては、希釈されたあたりのいい情報より、できるだけ元ネタに遡る方が、より本質に迫ることができる。だから、独自の理論を展開するのは自由だが、さもそれを最初から創造したような態度は如何なモノかと思ってしまう。他人のした仕事には敬意をもってきちんと引用しつつ、後継が深く学ぶための土壌を正直に提供するのか?それとも自分を越えないためにコアとなる元ネタを隠して、オリジナリティを装うのか?そこには、その講師の倫理感や人間性、何のためにその仕事をしているのか?ということが直結している。