未分類」カテゴリーアーカイブ

ロルファー変えた方がいいですか? の続き

先程の場合は、ロルフィングをシリーズで受けている場合でしたが、シリーズを一通り終えての場合はどう考えたらいいでしょうか?ロルファーは人間ですので、いろんなバックグラウンドと身体の見方、そして、健康に対しての捉え方、統合とはどんな状態と考えているのか?が、無意識に反映します。だとすると、受け手の身体を一人のロルファーが、すべてバランスよく総合的に捉えることができるのか?というと言うまでもなく限界があります。

別のロルファーだからこそ、気づけることがあります。そうやって考えるとロルファーも楽です。自分が提供できることに専念集中できるし、全部やろうとしなくていい。勿論できないわけですから。ご自分が気になるロルファーからセッション受けるのはいいことだと思います。そうやって様々な観点からいろんな角度でアプローチしてもらうことで、全体の統合が進みます。ある時点では、ロルフィング以外のプラクティスがぴったり合っているタイミングがあるかもしれません。

ただ、そのロルファーからのロルフィングでうまく改善・達成できなかったからといって、ロルフィング自体にに限界を感じる前に、別のロルファーからもセッションを受けてみてほしいなあと思います。ロルフィングに限りない可能性を感じている私としては。

様々な良質のセッションを受けるというのは、自分への投資とWell-beingの追求であって、セラピーをどうどう巡りするジプシーとは一線を画す立ち位置です。

その動機が、探究心から来ているのか、それとも依存心からきているのか?、それは信頼できるプラクティショナーと「いい距離感・いい間合い」があるかどうか?ということにつきると思います。

私のRolfing®(ロルフィング®)の視点

いくつかのモジュールに分ける

 他人任せではなく、自力で何とかバランスできる身体を取り戻すには、土台をしっかり築く必要があり、それなりのプロセスが必要です。基本的には建物と一緒で、土台である足から順番に積み上げていくことで高い統合状態を引き出すことができます。私の観点と解釈でいうと次のようなモジュールに分けられます。統合が進まない場合は、前の段階が満たされているかどうか?総合的にみていく必要があります。

1st モジュール:骨盤をしっかり支えられる脚・足のサポートを充実させる。

背面、前面。側面(外側・内側)の支えを扱います。

下部2軸の充実

2nd モジュール:内臓の容れ物としての骨盤をしっかりさせる

骨盤を多方向から働きかけます。

上部2軸の充実

3rd モジュール:骨盤の中身、内臓空間

下部内臓の流動性と連続性。

2軸の連続性

4th モジュール:骨盤の上に頭がのるように

上部内臓の流動性と連続性。

2軸の接合線としての正中線が現れるのを待つ

5th モジュール:全体の連続性

全体性

2軸の分化と3軸の統合

ゲシュタルトの祈り

ゲシュタルト療法の祖フレデリック・パールズの言葉です。


Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

Frederick Perls
フレデリック・パールズ


これをロルファーとクライアントの関係性に置き換えると以下のような解釈になるかと思います。

ロルフィングの祈り

ロルファーである私は自分のワークを提供する。クライアントの身体は必要な変化を必要なだけ進める。

ロルファーは、身体が望んでいる変化を読み取ろうとするが、表面上のクライアントの主訴に応えるためにワークしているわけではない。そして、クライアントの身体は、施術者の思惑通りに変化するわけではない。

ロルファー、クライアントは別々のシステム。

ロルファーが提供すること、クライアントが望む変化、それがたまたま一致したなら、それは素晴らしいこと。たとえそれが一致しなくても、それはそれで素晴らしいこと。

からだにコンタクトするということ

今セッションにお越しになっている方から、メールにて感想をお送り頂きましたので紹介したいと思います。

ロルフィングはかなり能動的なセッションだということ。主体は受け手で、受け手が自分の体のワークを進めるものであること。(私個人の感想です)
またそれを実際体験してみると、体にコンタクトすることは単に物理的な体や個人の体にとどまらず、
カラダという有機体としての意図や流れの中でのことでもあって、
治す変えるでは得られない全体としての健全性のようなことが、本当に今ここで行われているということを、
頭でなく体で、体の内からの実感をもった体験として知ることができた。
これは、自分の体への何にも基づかない信頼を生み、
少しずつ自分の体との信頼関係を取り戻す過程を始められたように感じる。

手で把握する

先日のRolf Movement®セッションで視覚と身体の連動がうまくないというケースだった。下半身の動きに頭の動きが連動せず、下肢から腰まではつながりがあるが、そこから急に途切れる感じになるという。体験がない人には全く何のことかわからないと思うが、身体の感覚は均等に行き渡っているわけではなく、モザイク状になっていることも珍しくない。その偏差が大きいと、傍からは身体はどこにも怪我や障害がないように見えても、本人の身体感覚は著しい違和感が伴う。

今回のケースは、眼をあけていると情報量が多すぎて、動きが途絶えてしまうので、まず眼を閉じてもらって、安全が確保される状況を創り出す。その時に鍵となったのは、手に動かしたいように動いてもらったことである。

それによって、手の感覚と動きによって、身体の周囲を把握できるようになり、統合への流れができた。

視覚は、どちらかというと後期に発達するので、手の動きや触覚から情報を集めることは、より原初的といえる。手を使うという行為によって、視覚システムがバックアップされ、安定化したのではないかと考察できる。

手を使うということは、何気にすごい意味を持っているのかも知れない。

場面によって介在の仕方は異なる

働きかける場所によって、タッチや介在の仕方を変える必要がでてきます。
でもその判断は、ロジックなものではなく、肚に頼るしかなく、結果からそう思えてきます。

以下ある方のセッション2回目の感想です。

” 左アキレス腱の痛みの部分は、長年違和感がありつつスルーしてきた箇所で、しっかりとフィジカルな体に触れられることで、そこに十分気づきを向けることができ、よりそこへ探求を向ける機会を持てたと思った。

一方右胸肩は、より繊細で深い部分に触れることだった為、もし体に直接触れるサポートであったら、多分TOO MUCHだったように思う。あの時は。
見守られることのこれ以上ないサポートをあの時感じていた。

それがあって、体は体のワークを自ら安心して自分のペースで進められたように感じる。

本当にとても大きな助けだった。”

私自身も場面によって、見守ることがその時必要な介在になることを再確認できました。こうしたフィードバックは、ロルファーの学びを深めてくれます。

広げるということ

援助職業界や健康産業でいうと、たくさんの人が助かった方がいい、というのは通説だと思う。チェーン店や支店を増やすというのも、何らかの益を被る人は、できるだけ多い方がいいという発想。治療院も大きくなると、助手を雇って、人数をこなせるようにする。よく見かけるケースだ。だが、特定の施術者との相性に敏感な場合は、ええっ研修中の実験台になるの?という残念な気持ちになる。

起こりがちなのは、多数派に分類される人達は、その大きな流れにうまく乗って適合するけど、少数派がないがしろにされやすい。大抵の人が大丈夫そうなことでも、特定の人にとっては、過剰に感たり、とてもやり過ごせないこともある。不幸なことに理性が働かない集団の中にいたりすると、多数派にとっては組織の運営上や手間が増える面倒さもあってか、そうした少数派は、悪い意味で特別視され、煙たがられるか、がまんを強いられたりする。

自然に広がっていくのは当然のことだ。いいものは広がり、そうでないものは淘汰される。だが、大勢がいいと感じることが、万人には当てはまらないということを常に意識すべきだ。この治療者によるこの治療法がうまくいくこともある。でも同じ治療法なのに別の施術者との組合せだと成功しないこともある。そして、受け手が別になると、そのやり方自体全く合わないかもしれない。その可能性は常にあるわけだから、万人に効く魔法の術や万能薬は存在しないことになる。

例えば、中医学でいうところの、肺虚に分類される人間は、皮膚への圧力に敏感とされる。全体でいうところの25%の比率で存在する。また、トラウマの種類によっては、触れられることに過敏になっているケースもある。一方で、いくら強く押されてもいいし、できればなるべく強く押してもらった方が、”効く”感じがする人々もいる。有名な施術方法で、かなり圧力を用いる方法で確かにそれによって成果も出ていて実績がある方法もある。だが、どんなにオーソライズされた方法でも、先の肺虚のグループにとっては、ちょっとした圧力でもそれが本人にとっては過剰な刺激になってしまい、別のグループでの反応とは当然異なってくる。

可能な限りの集客を目指す立場にいると、効かない例というのは排除したい心理が働くだろうから、それらを特別なところ、或いはおかしな人達として分類して、別のグループでうまくいった実績のみを持ち出してアピールするかもしれない。薬の臨床試験で75%の治癒効果があるとなると、さも効きそうな印象があるが、25%には効かないので、そのグループに属すると、その薬は無駄かむしろ害になる。その個人にとって、7割5分治るということはないのだ。その薬が合うか合わないかは、常に100か0である。

それと同じ原理で、何かを広げようとしたときに、少数派は無視される傾向にある。

だが、少数であっても、自分に合わないやり方に出会った時、他人がどうであっっても、そのような反応に無理に合わせようとしたり、うまくいかないことを自分の何かが間違っていると考えること自体間違いだ。あたり前だが、感じ方や反応もそれぞれ異なり、人は違うということを忘れてはいけない。小さいものが長いものに巻かれたら、息苦しいだけ。それより、そのメソッドが素晴らしいものであるのなら、より改良される点を残しているということで、それを網羅できれば、全体としても発展する機会を提供することになる。また、創始者や講師が、そのような少数派の反応を無視するとしたら、そのメソッド自体或いは教えるものとしての人格を問う必要がある。

何かいいものが、いい形で広がっていくためには、大きな流れに乗らない、乗れない少数の反応を無視したり取りこぼさないように、それを伝えたり運営する人間は、聞く耳を持って、柔軟に対応していってほしいと切に思う。

私はというと、常に少数派に属しているためか、広げるという方向性に対して、常にうがった見方をしがちである。

蝶形骨周りの空間の重要性

人によっては、一度に大きな変化を伴う介入をたくさん受けても全く問題い方もいるが、中には、可動性が急激に増すと、平衡感覚つまり前庭の処理が追いつかず、目まいがしたり、ふらついたり気分が悪くなって中々適応に時間がかかる場合もある。

先日のセッションで、そのようなケースを扱ったのだが、セッションが進むに連れ、感覚が外に広がるものの部屋の中に限定され、身体感覚は薄く、解離に似た状態になった。その方はもともと横向きで寝ることが苦手とのことだったが、側方に荷重がかかると側頭骨から蝶形骨にかけて物理刺激が加わり、蝶形骨付近の空間が狭まって、内耳付近にも影響が及びやすいのかも、と推測した。

蝶形骨とその周辺の空間は特に繊細に扱わなければならない領域で、クレニヲの講習にいってセルフワークしているうちに、蝶形骨が内側にグッと入ってしまい、それから鬱傾向になってしまったクライアントの話を聞いたことがある。また、未熟なクレニヲのセッションを受けてからずっと鬱になってしまった方からも話を聞いたことがある。そういうケースの場合は、病理的や心理的な原因に由来するわけではなく、単に身体構造的な問題なので、いくら薬や心理カウンセリングを受けても見当違いということになる。

その回復には、まず蝶形骨周辺の結合組織の張力バランスを整え、頭蓋骨間の空間を確保してあげる必要がある。硬膜などの深部膜組織の可動性も関係してくる。

セッションによって、多少不安定感が増したが、十分時間をとりながら、蝶形骨や側頭骨周辺の空間が広がるように知覚からも働きかけることで、セッションも統合へと収束した。解離傾向にある場合は、筋肉の収縮活動をしてもらいながら、正常なトーンと存在感が増すような働きかけもまた重要である。

嫌がらせやいじめを受けるということ

父は大動物を実験対象とした研究職についていたが、観察していると、新入りの牛は、元からいる牛たちに突かれたり、グイグイされたりして、いじめのようなことを必ず受けるらしい。本能的に群れの中で異質なものを見つけたときに、動物的にはそれまでのパワーバランスを維持するために、マウンティングしたり、いじめてみたりという行為は、ある意味自然に起こり得るということになる。

学校のいじめ問題も、いじめはない、と学校側が責任逃れのためにコメントしたりするが、そもそもいじめるような行為が起こる可能性を否定しては先に進まない。

それより、忘れてならないのは、異質なものに対して、まず群れは排除しようとしたり、何らかの力を示して、力関係の下位に位置づけようとすること。だから、その個人がユニークさを持っていたり、他より抜きん出て目立つような特質を持っている場合には、そうでない大多数は、本能的に存在に対して脅威に感じ、何とか叩こうとするのは、動物行動パターンとしては特別なことではないというこどになる。

個性的であったり、何らかの才能がある場合は、群れの中の一個では力がないため、群れをなして、嫌がらせやいじめを行使するのは、動物ではありがちなことといえる。そうした動物的行動的衝動は、人間としての知性や道徳感によって抑制されるべきであるが、本能的にはそのような行動パターンがあらわれやすいといえる。

であるから、不当に嫌がらせを受けたり、群れでいじめを体験したことがあるなら、裏を返せば、その個人には集団にはないユニークさや才能があるということになる。何の才能もユニークさがなければ、いじめの対象にもならない。

悪いことだと分かっていても、いじめに賛同したり嫌がらせした人間の心には、そうした行為の記憶が澱のように心の奥底に堆積して、必ず何か健康や人生に影を落とすに違いない。それがカルマというものだ。

要らない関係性からの悪影響を断つ

人間は、社会的な生きものであるが故に、どこかに属していたという本能は誰しも持っている。哺乳動物は特に生後、生き抜くためには母親などのケアしてくれる存在が必要なので、関係しながら生きていくことが運命づけられている。

しかしながら、必要な場所で必要な相手との関係性が永遠に続くわけではなく、ある段階に来たら別れがあり、新しい出会いが待っている。それは個人レベルだったり、集団だったりする。現代において、つながりや絆がキーワードになり、時にタッチの重要性も説かれたりする。だが、関係性は常に動的で、固定されていたり、固執していたら、健全とはいえない。

この帰属欲求をうまく利用すると、組織や団体で会員を管理してコントロールすることも可能だ。それは人間の弱みにつけ込んで、意図的にやってはいけないことだが。関係性を維持するために、弱みや不安を刺激する文言が使われているとしたら、或いはその団体に属していることに優位性があって、他を不当に批判して囲われそうになったら、勇気を持ってそこから離れるべきだ。

ところが、悪意までいかなくても故意に心理や本能を利用する意図がある輩というのは、巧妙に人をそこに属するように仕向けたり、サイキックな力を使って、つながりを保とうとする。だから、身体や名目上はその組織から離れたとしても、何か重い感じが伝わってきたり、流れが滞ったりする。

では、どうしたらいいのだろうか? そんな時にもう要らない関係性を清算したいときには、以下のワークが役立つ。

  1. その人物に対して、思っていることをプラスもマイナスのこともすべて紙に書き出す。
  2. その紙を破り捨てる。
  3. イメージでその人物とのつながっているコードを切る。
  4. 自分につながっていた部分を、その人物の子供(一部)として、イメージの中で当人に返す。
  5. その人物のことを思い出したり話したりすると、また無意識につながってしまうことに注意する。

自分は強いから大丈夫な場合がほとんどだと思いますが、ただ、本人はよいとしてもその周辺、家族や動物など弱いところにその悪影響がでたりすることがこの種の問題でいやらしいところで、そこからダメージを食らったりします。