ゲシュタルトの祈り

ゲシュタルト療法の祖フレデリック・パールズの言葉です。


Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

Frederick Perls
フレデリック・パールズ


これをロルファーとクライアントの関係性に置き換えると以下のような解釈になるかと思います。

ロルフィングの祈り

ロルファーである私は自分のワークを提供する。クライアントの身体は必要な変化を必要なだけ進める。

ロルファーは、身体が望んでいる変化を読み取ろうとするが、表面上のクライアントの主訴に応えるためにワークしているわけではない。そして、クライアントの身体は、施術者の思惑通りに変化するわけではない。

ロルファー、クライアントは別々のシステム。

ロルファーが提供すること、クライアントが望む変化、それがたまたま一致したなら、それは素晴らしいこと。たとえそれが一致しなくても、それはそれで素晴らしいこと。

からだにコンタクトするということ

今セッションにお越しになっている方から、メールにて感想をお送り頂きましたので紹介したいと思います。

ロルフィングはかなり能動的なセッションだということ。主体は受け手で、受け手が自分の体のワークを進めるものであること。(私個人の感想です)
またそれを実際体験してみると、体にコンタクトすることは単に物理的な体や個人の体にとどまらず、
カラダという有機体としての意図や流れの中でのことでもあって、
治す変えるでは得られない全体としての健全性のようなことが、本当に今ここで行われているということを、
頭でなく体で、体の内からの実感をもった体験として知ることができた。
これは、自分の体への何にも基づかない信頼を生み、
少しずつ自分の体との信頼関係を取り戻す過程を始められたように感じる。

手で把握する

先日のRolf Movement®セッションで視覚と身体の連動がうまくないというケースだった。下半身の動きに頭の動きが連動せず、下肢から腰まではつながりがあるが、そこから急に途切れる感じになるという。体験がない人には全く何のことかわからないと思うが、身体の感覚は均等に行き渡っているわけではなく、モザイク状になっていることも珍しくない。その偏差が大きいと、傍からは身体はどこにも怪我や障害がないように見えても、本人の身体感覚は著しい違和感が伴う。

今回のケースは、眼をあけていると情報量が多すぎて、動きが途絶えてしまうので、まず眼を閉じてもらって、安全が確保される状況を創り出す。その時に鍵となったのは、手に動かしたいように動いてもらったことである。

それによって、手の感覚と動きによって、身体の周囲を把握できるようになり、統合への流れができた。

視覚は、どちらかというと後期に発達するので、手の動きや触覚から情報を集めることは、より原初的といえる。手を使うという行為によって、視覚システムがバックアップされ、安定化したのではないかと考察できる。

手を使うということは、何気にすごい意味を持っているのかも知れない。

場面によって介在の仕方は異なる

働きかける場所によって、タッチや介在の仕方を変える必要がでてきます。
でもその判断は、ロジックなものではなく、肚に頼るしかなく、結果からそう思えてきます。

以下ある方のセッション2回目の感想です。

” 左アキレス腱の痛みの部分は、長年違和感がありつつスルーしてきた箇所で、しっかりとフィジカルな体に触れられることで、そこに十分気づきを向けることができ、よりそこへ探求を向ける機会を持てたと思った。

一方右胸肩は、より繊細で深い部分に触れることだった為、もし体に直接触れるサポートであったら、多分TOO MUCHだったように思う。あの時は。
見守られることのこれ以上ないサポートをあの時感じていた。

それがあって、体は体のワークを自ら安心して自分のペースで進められたように感じる。

本当にとても大きな助けだった。”

私自身も場面によって、見守ることがその時必要な介在になることを再確認できました。こうしたフィードバックは、ロルファーの学びを深めてくれます。

道具はただ道具として、それを使いこなすのは結局、人

CS60という施術器具は、とても興味深い。確かに意味がある変化をもたらすポテンシャルを持っている。けれど、それを使うのも人間で、術を受けとるのもまた人間である。単なる機械-対-物質であれば、常に同じ入力に対して同じ結果が、再現よく得られる。 一方、人だと、変動する動的存在の組合せなので、お互いが変わり続けているので、施術の質は、施術側がその変動を読み取る観察力と介入の仕方を自在に適応させる能力によって決まってしまう。同じ器具や同じ方法を使っていたとしても。

先日、Eijiさんという方から、CS60による施術を受ける機会があった。Eijiさんは、サイキックなカウンセリングが本業だが、CS60の有用性に着目してセッションに取り入れている。施術がはじまると、次第に腎臓付近のあるポイントに焦点を絞られてきて、さらに擦られているとだんだん何かが痛みと一緒に浮き出てくるのを感じた。きちんと痛みはあるのだが、無駄な圧や痛みとははっきり異なる。CS60も未熟な人から受けると、そこは誰がどう押したって痛いでしょ?ってところで、しかも外れた意味がないところをゴシゴシされる体験もしたことがある。その場合はしかたなく、感覚を遮断して時をやり過ごす対処法でなんとか切り抜けるしかない。(研修とはそういいものだからある程度しかたないし、不満やクレームなのではなく感じたことをただ述べているだけなんですが、圧や痛みに敏感なタイプだと結構堪えます。)

Eijiさんの施術には無駄がなくポイントを外さない正確さがあって、他の施術者とは異なる ”ある層”に働きかけられているのを感じた。もろ肉体とか電気という感じではない。恐らくそれは、Eijiさんが本業として普段扱っている層なんだろうなという気がした。CS60だけではなくて、特有の石でできている器具も効果的に使いながら、滞っている何かを流していく施術スタイルをとっていた。

施術して頂いた翌日の背中がとても軽く感じたのが印象深く、他の方から受けた場合は、すっきり感はあるものの、圧を受けた組織がほんのわずかなレベルだが、どこかに損傷している感じがしばし残ることがあったが、それが今回全くなかった。これは大きな違いである。セッションをしていると気がつかないレベルで、クライアントから影響を受けることがあると、その影響でこびり付いていたものが、ツキモノが落ちたように剥がれたような、そんな印象である。

Eijiさんから受けている途中で交替して、Mr.Sさんからもワークしてもらったが、Sさんも毎日練習されているというだけあってスキルが高く、筋肉と筋肉の間に隙間ができてくるのを感じた。人柄もあってか何か安心できるタッチだった。

道具は同じでも、全く働きかけている層が違うことがはっきり感じられて面白い体験だった。この感覚がどう続いているかもう少し見守りたいと思う。

Eijiさんは、人を楽しくさせる陽の気に満ちている方で、セッションをお勧めします。(必要な方が必要なタイミングでEijiさんに出会いますように!寄生虫みたいな人、時間泥棒は申込禁止よ!)

サイキックカウンセラーEijiさんの公式サイト

自分に合った学び、施術

はっきりわからないけど、タイミングが合っていたり、何となく講師の先生の顔写真にひかれるとか、そんな一見曖昧な判断で参加したトレーニングはかなり自分にとって意味があるものだった経験がある。一方、今は亡き創始者から直接習ったことがあるとか、人気のようだから一度受けてみるか、という感じで参加したトレーニングにはハズレが多い。あくまで自分の印象だけれども。

売れ筋の商品だからという理由だけで買うマインドもいかがなものかと思うけれども、漠然と大多数が選ぶなら間違いはないだろうということを信じ込まされているからなのか?自分が求めることと、大多数が選ぶものがたまたま一致することもあるかもしれないが、それは珍しい例だと思う。

自分がもし、独自のものを追求したいとか、自分に最もフィットしたものと出会いたいと思うなら、むしろ、多数派が選んでいるものと敢えて異なるものを選択する癖をつけてみたらどうだろう?長いものに巻かれてばかりいると、自分の感性が埋没してしまう。

何か施術を受けてみようとする。その施術者の履歴は立派で何か権威がありそう。何かしっくりこないような腑に落ちてない感じがするけど、とりあえずそれは無視して、情報から確からしいと納得しようとして試みる。実際施術を受けてみると、やはり何かしっくりこない感じがつきまとう。そんな経験はないだろうか? 効果を感じないのは、自分がおかしいからなのか?? などと自分を疑ってもしかたない。結果とその印象がすべてなのだ。

油断すると、自分がどう感じるのか?より、漠然とした多数意見や常識という仮想頭脳に判断を任せることになり、主体がどんどん自分から離れていく。あの人の推薦するものだから確かに違いないと思って、信じ込もうとする。それは結果的には、一連の責任を自分ではとらずに人のせいにしているのと同じだ。

著名人や知り合いが推薦したとしても、あくまで参考に留め、選択した責任は自分で取らなければいけない。そういうことを放棄して、自分にフィットしない、或いは身の丈にあっていないことをやり続けても、必要なことは何も起きない。

お金と暇に任せて、何かすごいヒーラーや凄い先生を常に探し続ける人をたまに見かけるが、それは単なる欲の追求であって、その割り込み?!によって、本当にそれを必要とする人が、はじかれ、後回しになっているかもしれない。

自分にフィットする施術者はそう多くないと思う。それぞれが必要な出会いになるには、欲からではなく、うまくたくさんのモザイクがそれぞれにはまり、全体が棲み分けされるような平安な状態があるように思う。

CS60の施術方法について

CS60は、注目に値する施術器具です。その実績については、開発者の西村先生のブログや公式サイトをご参考ください。その基本的な使い方を教える青山の本部での研修は、20~30Kg程度の圧力を加える施術方法なので、場所によってはかなり痛みを伴う場合もあります。

痛みに寛容な方もいれば、かなり敏感に感じる方もいて感受性に関しては千差万別といえます。後者に該当する方がCS60の施術を受けた場合、中にはあまりの痛さに絶えられずもう受けるのを止める方も実際にいます。

これは、非常に残念なことだと思っています。

痛みに対する感受性は、怪我や食生活、遺伝的特質も関連していますが、生まれつきの傾向が、高感受性のタイプが実際います。前のブログでも書きましたが、肺虚に分類されるタイプが痛み高感受性とするとその比率は、おおよそ5分の1存在します。これに様々な怪我やトラウマによって、後天的に痛みに過敏になったタイプを足すと、さらに比率は上がります。

ということは、かなり痛みを伴う施術でそのまま効果がでるタイプと、効果はでるものの痛みに対しての許容量が少ないために、効果以前にダメージを受けてしまう場合が実際にあるということです。

施術は、人と人とのやり取りですから、理論や原則があったとしても、目の前の人がどうその介入を受けとるかがすべてです。

施術者の方のスキルと実力があれば、いくら痛みがあったとしても、その効果とを天秤にかけて、続けようという気持ちになるはずです。当然デメリットの方が大きければ、施術器具がいくら素晴らしいものでもそれはただの金属の塊と嫌な体験です。

私は元々、痛みに対して寛容ではないため、古典的な痛みを伴うようなロルフィングのやり方を自分が受けていいようなやり方に変えてきたので、CS60についても同じ考えがあります。つまり基本は基本として、別のやり方があるはずであると。

したがって、基本のやり方でそのまま効果がでる人もいるし、うまくいかないこともある。だからといって、やり方が正しくて受け手が悪いわけではないこと、それを押しつけることはできないということです。型を守ることは大切ですが、受け手が最大の恩恵を享受することより優先順位が高い規律など存在しません。

西村先生も、CS60を手にした人間が使いやすいように自由にやったらいい、と仰っていましたが、器具はあくまで道具なのでそれをどう使いこなすかは、施術者の問題です。

人数が増えてきて、その手法についてのグループができると、創始者の取り巻きが、やれ正しい使い方はこうあるべき、とか、自力でそのクライアントを呼んだわけでもなく、たまたま来てくれたことに感謝することもなく、オレの考えとやり方を押しつけて、結果が伴わないことがさも受け手にあるようなことを堂々と口に出してしまうようなリスクは常にあります。

どんなに素晴らしい手法や器具であっても、それは手段であって、変化や治癒の主体は常に受け手であって、決して”施術者側”ではないことを理解していれば、自ずと謙虚さと他者のやり方に寛容になるので、”オレ”流の押しつけや様々なやり方を排除しようとはしないはずです。

広げるということ

援助職業界や健康産業でいうと、たくさんの人が助かった方がいい、というのは通説だと思う。チェーン店や支店を増やすというのも、何らかの益を被る人は、できるだけ多い方がいいという発想。治療院も大きくなると、助手を雇って、人数をこなせるようにする。よく見かけるケースだ。だが、特定の施術者との相性に敏感な場合は、ええっ研修中の実験台になるの?という残念な気持ちになる。

起こりがちなのは、多数派に分類される人達は、その大きな流れにうまく乗って適合するけど、少数派がないがしろにされやすい。大抵の人が大丈夫そうなことでも、特定の人にとっては、過剰に感たり、とてもやり過ごせないこともある。不幸なことに理性が働かない集団の中にいたりすると、多数派にとっては組織の運営上や手間が増える面倒さもあってか、そうした少数派は、悪い意味で特別視され、煙たがられるか、がまんを強いられたりする。

自然に広がっていくのは当然のことだ。いいものは広がり、そうでないものは淘汰される。だが、大勢がいいと感じることが、万人には当てはまらないということを常に意識すべきだ。この治療者によるこの治療法がうまくいくこともある。でも同じ治療法なのに別の施術者との組合せだと成功しないこともある。そして、受け手が別になると、そのやり方自体全く合わないかもしれない。その可能性は常にあるわけだから、万人に効く魔法の術や万能薬は存在しないことになる。

例えば、中医学でいうところの、肺虚に分類される人間は、皮膚への圧力に敏感とされる。全体でいうところの25%の比率で存在する。また、トラウマの種類によっては、触れられることに過敏になっているケースもある。一方で、いくら強く押されてもいいし、できればなるべく強く押してもらった方が、”効く”感じがする人々もいる。有名な施術方法で、かなり圧力を用いる方法で確かにそれによって成果も出ていて実績がある方法もある。だが、どんなにオーソライズされた方法でも、先の肺虚のグループにとっては、ちょっとした圧力でもそれが本人にとっては過剰な刺激になってしまい、別のグループでの反応とは当然異なってくる。

可能な限りの集客を目指す立場にいると、効かない例というのは排除したい心理が働くだろうから、それらを特別なところ、或いはおかしな人達として分類して、別のグループでうまくいった実績のみを持ち出してアピールするかもしれない。薬の臨床試験で75%の治癒効果があるとなると、さも効きそうな印象があるが、25%には効かないので、そのグループに属すると、その薬は無駄かむしろ害になる。その個人にとって、7割5分治るということはないのだ。その薬が合うか合わないかは、常に100か0である。

それと同じ原理で、何かを広げようとしたときに、少数派は無視される傾向にある。

だが、少数であっても、自分に合わないやり方に出会った時、他人がどうであっっても、そのような反応に無理に合わせようとしたり、うまくいかないことを自分の何かが間違っていると考えること自体間違いだ。あたり前だが、感じ方や反応もそれぞれ異なり、人は違うということを忘れてはいけない。小さいものが長いものに巻かれたら、息苦しいだけ。それより、そのメソッドが素晴らしいものであるのなら、より改良される点を残しているということで、それを網羅できれば、全体としても発展する機会を提供することになる。また、創始者や講師が、そのような少数派の反応を無視するとしたら、そのメソッド自体或いは教えるものとしての人格を問う必要がある。

何かいいものが、いい形で広がっていくためには、大きな流れに乗らない、乗れない少数の反応を無視したり取りこぼさないように、それを伝えたり運営する人間は、聞く耳を持って、柔軟に対応していってほしいと切に思う。

私はというと、常に少数派に属しているためか、広げるという方向性に対して、常にうがった見方をしがちである。

蝶形骨周りの空間の重要性

人によっては、一度に大きな変化を伴う介入をたくさん受けても全く問題い方もいるが、中には、可動性が急激に増すと、平衡感覚つまり前庭の処理が追いつかず、目まいがしたり、ふらついたり気分が悪くなって中々適応に時間がかかる場合もある。

先日のセッションで、そのようなケースを扱ったのだが、セッションが進むに連れ、感覚が外に広がるものの部屋の中に限定され、身体感覚は薄く、解離に似た状態になった。その方はもともと横向きで寝ることが苦手とのことだったが、側方に荷重がかかると側頭骨から蝶形骨にかけて物理刺激が加わり、蝶形骨付近の空間が狭まって、内耳付近にも影響が及びやすいのかも、と推測した。

蝶形骨とその周辺の空間は特に繊細に扱わなければならない領域で、クレニヲの講習にいってセルフワークしているうちに、蝶形骨が内側にグッと入ってしまい、それから鬱傾向になってしまったクライアントの話を聞いたことがある。また、未熟なクレニヲのセッションを受けてからずっと鬱になってしまった方からも話を聞いたことがある。そういうケースの場合は、病理的や心理的な原因に由来するわけではなく、単に身体構造的な問題なので、いくら薬や心理カウンセリングを受けても見当違いということになる。

その回復には、まず蝶形骨周辺の結合組織の張力バランスを整え、頭蓋骨間の空間を確保してあげる必要がある。硬膜などの深部膜組織の可動性も関係してくる。

セッションによって、多少不安定感が増したが、十分時間をとりながら、蝶形骨や側頭骨周辺の空間が広がるように知覚からも働きかけることで、セッションも統合へと収束した。解離傾向にある場合は、筋肉の収縮活動をしてもらいながら、正常なトーンと存在感が増すような働きかけもまた重要である。

嫌がらせやいじめを受けるということ

父は大動物を実験対象とした研究職についていたが、観察していると、新入りの牛は、元からいる牛たちに突かれたり、グイグイされたりして、いじめのようなことを必ず受けるらしい。本能的に群れの中で異質なものを見つけたときに、動物的にはそれまでのパワーバランスを維持するために、マウンティングしたり、いじめてみたりという行為は、ある意味自然に起こり得るということになる。

学校のいじめ問題も、いじめはない、と学校側が責任逃れのためにコメントしたりするが、そもそもいじめるような行為が起こる可能性を否定しては先に進まない。

それより、忘れてならないのは、異質なものに対して、まず群れは排除しようとしたり、何らかの力を示して、力関係の下位に位置づけようとすること。だから、その個人がユニークさを持っていたり、他より抜きん出て目立つような特質を持っている場合には、そうでない大多数は、本能的に存在に対して脅威に感じ、何とか叩こうとするのは、動物行動パターンとしては特別なことではないというこどになる。

個性的であったり、何らかの才能がある場合は、群れの中の一個では力がないため、群れをなして、嫌がらせやいじめを行使するのは、動物ではありがちなことといえる。そうした動物的行動的衝動は、人間としての知性や道徳感によって抑制されるべきであるが、本能的にはそのような行動パターンがあらわれやすいといえる。

であるから、不当に嫌がらせを受けたり、群れでいじめを体験したことがあるなら、裏を返せば、その個人には集団にはないユニークさや才能があるということになる。何の才能もユニークさがなければ、いじめの対象にもならない。

悪いことだと分かっていても、いじめに賛同したり嫌がらせした人間の心には、そうした行為の記憶が澱のように心の奥底に堆積して、必ず何か健康や人生に影を落とすに違いない。それがカルマというものだ。