痛みに対して敏感でいたい

安田登さんの新刊「すごい論語」を読んで、痛みに対しては鈍感にならずにいたい、と改めて思った。痛みを無視しようと、ないものにしたいという考えの先には、痛みの感覚を遮断する、神経ブロックあるいは鎮痛剤の服用という方法。あまりに痛みが大きい場合には一時回避は時と場合により必要かもしれないが、適切な量と服用のタイミング、そして、薬剤に依存しないための、自覚的な使い方が大切だと思う。

痛みを感じないようにするやり方は、大きく分けて、1)痛みを感じないように感覚を麻痺させる、2) 痛みに対して、寛容になるように条件付けする、 3)痛みを生じさせている要因に働きかける、の3つである。

1)はあくまで一時凌ぎか、レスキュー的に。2)の寛容は、ある感覚に慣れさせてしまう脱感作のやり方。鼻がある匂いに慣れて、匂わなくなるのに似ている。1)、2)に対して、3)のやり方は、痛みという感覚はそのまま、感度も落とさずに、痛みというサイン、つまりその負担が減るように働きかけるやり方。

例えば、家の中が臭う。が、臭いの元がどこにあるかわからない。探すのが面倒なので、とりあえず手もとにあったマスクをしてみる、それでも臭いから鼻栓をしてみる。これが1)の方法。次に、だんだん鼻が慣れてきて、それ程気にならなくなるから、まあいいっかという気持ちでそのまま過ごす。これが2)の方法。でもこの2つのやり方だと、部屋に誰か来たら一発で不味いことが起きているってわかるっす。そこで、何が臭っているのか、どこにあるのか探して、それを部屋から外に出す。すると当然の結果として、部屋は本当の意味で臭くなくなります。これが、3)のやり方になります。だから、2)のそれに慣れてしまって「寛容」になるっていうのは、その部屋の主として自分だけの世界ならごまかせるんだけど、そもそもの臭いの元がなくなたわけではないので、客観的に観ると、決していい状態ではないわけです。

寛容になったところで、腐った本体はあるわけだから、部屋の主が気にならないとしても、腐敗したガスが肺に入ってきたり、菌が繁殖することで、感染のリスクが高まってかもしれない。だから、あるものをないように感じているだけで、根本の状況は変わっていないことになります。

痛みに例えると、痛みをサインとして、その要因を探し出して、根本を変えない限り、からだは納得できない。よりよい状態に移りたいがためのサインとして捉えない限り、痛みは面倒な感覚で邪魔者扱いされるかもしれません。それでは、痛みが浮かばれないし、サインを出している本来の意味が汲み取られないことになります。

だから痛みに関しては、その感度を落とさずに尊重して、それを生み出している要因を変えるような働きかけ、大抵の場合、痛みの箇所とは別のところに位置していることが多いですが、痛みを押さえ込んだり、その感じ方を鈍感にするような働きかけは、根本解決とはいえず、注意が必要なことは間違いないと思います。

※そうやって考えると、寛容とか馴化というのは、それ以上変わらない環境に対する生物の適応力を利用しているだけで、何か他に打開策はあるのかも?という気がしてきました。

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