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Yielding Embodiment® Orchestration オンラインセッション体験記 (Oさん)

フランス在住の方に3回シリーズのYielding Embodiment®Orchestrationのセッションを提供しました。以下ご本人の了解を得てレポートをシェアさせて頂きます。月一回のペースで実施されました。

一回目の感想

世界情勢が緊迫する中で、地に足をつけること、自分の体の中に「安心」を感じることができたのは、私にとって(そして多分、多くの人にとっても)本当に大切なことだと思います。

セッション中は、体の中にさざ波が感じられるたびに、先生のおっしゃる「Yielding Embodiment Orchestration」の「オーケストラ」のイメージが頭に浮かび、確かにその通りだなと思いました。
また、言葉にあまり重きを置きすぎることは、よくないように思っていた中で、セッション中に「委ねてみてください」という先生の言葉に、何かプツンと細い糸が切れるような感覚がして「安心」が全身に広がった時は、ギフトのような瞬間でした。

人間はやはり「言葉」に頼っている生き物だし、人と人の間をつなぐ信頼を作り出すツールとして「言葉」を大切にしてもいいんだなと思い直しました。

また、先生の記事「イールドワークで学ぶ空間身体学」を読ませていただいて、「安心があってからこその安全」なんだということが書かれていて、とても腑に落ちました。
日本は「安全・安心」が大きく謳われる中で、実は「安全」を求めるばかりに「警戒」が強まり、結果、本当の「安心」が提供できていない傾向があるように思います。私がフランスに来て感じたことは、「フランスは日本ほど安全じゃないかもしれないけれど、安心できる場所がそこかしこに散らばっている」ということでした。
私が日本の社会や、日本の家族に感じられなかったものに対する回答がここにある気がします。

同じ記事の中に、イールドとは「待つこと」であり「施術側がよかれと思う変化を押しつけず、プロセスを無理に進めようとしないこと」というのがあり、これはまさに「子育て」のことだなと直感しました。
そこで、子供達のためにも、イールドをいつか学んでみたいと、思い始めています。
とはいえ、まだ始めたばかりなので、初めはうちの猫(モモちゃん、メス8ヶ月)のお時間を借りて練習させてもらって、ゆくゆくは、心理カウンセラーを目指すパートナーにも、練習に付き合ってもらおうとも思います。彼自身、大病と手術を経験し、身体が「委ねる」とは程遠い状態にある上、将来のクライアントとの「間」を見つける上でもイールドは有用だと思うからです。

イールドは「共鳴」であり、「アート」であり「ワールド」ですね!

2回目のセッションの感想

先日はセッションをありがとうございました。
まずは「私個人のため」のセッションとして受けられて本当に良かったなと思いました。「友達とできたらな・・・」なんて、いわゆる「ふんわり」とした考えが浮かびましたが、これは「私のための」「私の体のための」貴重な時間で、それを「私自身が引き受けてあげて、守ってあげる」ことが、まずは「安心・安全」な場所と時間の確保になるんだなと痛感しました。普通に日々の生活を送っていると、いろいろな関係性の中で(力関係だけでなく、好きだからこそみたいな)、人に譲ったり、流されてしまったりすることがあるけれど、そういう積み重ねが小さい澱のように心身に溜まっていくんだと思います。そしてこれが続くと、「体調不良」とまではいかなくても、その人の中になんらかの「停滞」や「淀み」みたいなものが生まれるんじゃないかと感じます。
イールドは、そういう無色透明で、一見、人畜無害のような「停滞」や「淀み」に働きかけてくれるもののように思いました。
それはセッション中、先生の「どう感じるか?」という問いかけに対して、被験者が感じたことを感じたままに言葉にするという行為で浄化されるのかもしれません。
普段なら絶対に口にしないようなこと、誰とも共有できそうにないことを言葉にできるのは単純に面白いし、ここにこそイールドという「間合い」の鍵が隠されているように思いました。
イールドが、私の身体の「間」と先生の「間」の間合いを探る時間であるなら、言葉はその「合間」を埋め合わせる、あるいは、つなぎとめるための「結び目」のようなものなのではないでしょうか。
自分の体の中に起こる変化を、包み隠さず口にできることの開放感は、体だけでなく心にも影響してくるし、事実、私はセッションを終えると、「癒されたな」というだけでなく「楽しかったな」という気持ちにもなりました。それは隣の部屋で私の声を聞いていた、日本語のわからないパートナーですら感じ取ったようです。

それから、今回の横向きの姿勢は、私が小さい頃、指しゃぶりをして寝ていた時の記憶を蘇らせました。落ち着く感じと悲しい感じ。本当は、寂しくて悲しいから自分を落ち着かせるために指をしゃぶって横たえていたんじゃないか?だから、先生がBの地点に移動されると、その感情がでてきたんじゃないか?セッション後、そんな考えが浮かびました。体に刻まれた「感情の記憶」が呼び起こされるのは、真の回復のために必要だと思いました。

3回目のセッション後

3回という限られた回数でしたが、一つ一つの回がそれぞれ意味深く、貴重なものでした。
私にとって、イールドのイメージは「マグマ」です。マグマがゆっくりと、重力と均衡する箇所を探しながら動いていく様子が、セッション中に自分の体の中におきている集中力と探求に似ているような気がしました。しかも、イールド中に感じる、あの「温かさ」と「冷たさ」の感覚は、マグマの中の温度と表面の温度差のような感じもしました。
私が、私の体の中で、ゆっくりと重力との接点を見つけるまで、先生がどのように関与してくださっているのか、正直最後までわかりませんでした。でも、先生が、私が重力との接点を見つけるまで「待っていてくださる」、「そういう時間と場所を与えてくださる」という安心感を提供していただけること自体が、イールドの意味なのかなと思っています。
そして、その接点を見つけた時、それは「死」に近い状態なのではないかとも思いました。
幸い、私は最後のセッションの時、苦手とするうつ伏せの状態で、人生で初めて、自分の心臓の動きというものを感じました。それはまさに、「生」でした。
この世に生を受けたものは全て、生まれ落ちた瞬間から「死」に向かって落下しています。
それがいつ「死」という地点に到達するのかは誰にもわかりません。
だからこそ、「死」は誰にとっても恐いものですが、イールドは、自分の体の、生の部分の重みが、重力に浸透していく間合いの探求、言ってみれば「土に還る」瞬間を探るということ、つまりは「死」を受け入れるワークでもあるのではないかと考えています。
でもそれは決して「死ぬための」ワークではなくて、「今を生きつつ死を思う」ワークなんだと思います。
イールドは受ける側によって様々な受け取り方があると思います。なので、これは私の直感的で、荒削りな、誤解を招くような意見かもしれません。でも、近年私がずっと考えてきた「死」について、新しい見方をいただくことができたように感じました。
私はイールドは一旦ここでお休みにして、こちらでロルフィングの10シリーズに挑戦しようと思います。
今はただ漠然と、いつか、私もこの自分の身体と他との間にできる「間合い」を見つけられるようになりたいと願っています。

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