身体が弛むということと、「許す」ということは関連があるのかもしれない。身体が警戒する必要のない状況なのに堅く構えていると、近くにいる他人の身体にもそれが共鳴して、どこか緊張が伝わる。緊張がない状態であれば、人は安心できる。
身体の土台がしっかりしていれば、その姿勢を維持するのに不必要な緊張がなくなる。すると、周辺にもそれが伝わり、緊張=警戒する必要もなくなる。土台がしっかりするとは、足場を信頼できて、その場所に身体を委ねている状態である。それが基点となって、周辺にも行動を広げやすくなる。つまり、それは自由を許された感覚である。実際に移動するかしないかより、移動しようと思えばできる可能性に満ちた感覚が重要なのだ。動き、つまり表現を制限されていない、そのままにできることを許されていることを双方に感覚を共有できれば、自分にも他者にも安心と許す感覚が出てくるのかもしれない。