科学者は通常、データを元に考察してディスカッションする。科学の前では、研究者は平等である。そこが科学の素晴らしいところです。NIHのギャロ博士の研究室に留学した古巣の研究所の先輩がいっていたが、ボスの言ったことに間違いがあるとためらいなく、ラボのメンバーがすかさず訂正していたという。ボスであるギャロも面子を気にすることなく、フラットに接していた様子が印象的だったという。
一方、科学的思考の前では、立場に関係なく、平等にディスカッションされるべきであるという理想とは別に、日本の会社の古い体質、取引先との関係性など、実際には様々な事情が存在する。
あるとき、前の会社の先輩Oさんが、某大学医学部の教授と研究開発会議の席で、教授の考えに異を唱え、「そんなことやっても無駄ですよ!」と正直に意見した。それを当時の研究所所長が慌てて、先輩に注意したことがあったそうである。けれども、科学的思考から、納得できないような意見を鵜呑みにして従ってしまうと、結局そのツケとして、彼の部下がしょうもない実験=無駄な時間と労力を強いられることになるわけで、そこはハーバード大学に留学して科学的思考をトレーニングされたOさんが、妥協できるわけがない。
立場に関係なく、平等にディスカッションする、それが科学のすばらしいところだと思う。
科学は思考停止を嫌う。権威がある科学者の意見だから、賞をもらった研究者だから、あるいは、インパクト指数が高い論文に掲載された内容だから、政府がそういっているから、NHKがそういっているから、などなど、それらは、科学的に正しいかどうか?ということとは、全く関係が無い。
科学は、まず疑う。陳腐なスピリチュアルやポジティブ思考は、疑わず腑に落ちてないのに鵜呑みにしてしまう。疑って、自分で検証する地道な作業から、定説を覆す発見が生まれる。そのためには、よく一つ一つデータを観察することだ。
感染者の数字を見るとき、母集団としてどんな集団を対象に、どのような特異性と感度を持ったどんな検査方法を用いて、どれだけの数を検査したのか? それによって、その数値の意味が違ってくる。それらを出さずに数字だけ示すと、意図した側に都合のいい印象を与えることができる。
ロックダウンは全く意味がなかったという結論に対する、十分な反論もないまま、何となく感染者数増大の数字だけ放送されて、何となく恐怖が煽られて、外出も控えたままだったり、びくついている受験生もいるという。
そんなとき、宮沢孝幸先生と武田邦彦先生の対談、ためになります。科学者、研究者はこうでないといけないと思います。