日本人の傾向として分けて考えるのが苦手だと思う。
先日の電気グルーブやその他音楽や芸術の作品と個人の行動は分けて考えることができれば、作品自体の販売を制限するようなことはしないだろう。政治をとっても例えばフランスの大統領が不倫をしたとしても、ゴシップ三流紙は別として個人的メディア攻撃もなく、政治を評価して失墜に追い込むようなことはしない。権力側が仕掛ける個人攻撃(例:前事務次官の前川氏への個人攻撃)や、不可解なタイミングと異常な割合で割かれるゴシップ報道によって、目を向けるべき問題や大切なことを考える時間が削がれていないかチェックする必要がある。
そこには、人間は完璧なわけではないので、いろいろ間違いや失敗はあるけれどもやることをやっていれば、それでいいじゃないか、というおおらかさが根底に在るような気がする。
その罪が凶悪な犯罪性を持っていれば別だが、世間をお騒がせしているのは、マスメディアであって、本人ではないのに、いちいち謝るのもおかしい。
例え、間違いを起こしたとしても、音楽を製作し、作品が優れていれば、誰が作っていようと芸術はそれでいい。肩書きが立派な御仁がつくり奏でる愚作にこそ意味がない。
もし、音楽作品と制作に関わる個人とを常に関連づけるのであれば、ジョンレノンのソロ作品はどうなるのだろう? ジョンのソロ作品に大きな彩りを添えたフィルスペクターという名プロデューサーは、殺人犯として逮捕されている。だからといって、海外で作品の発売には全く影響はない。
人にはいろいろ間違いがあるのだから、それを容認して、作品や仕事そのものを個人とは切り離して評価する見識が文化には必要不可欠だと思う。
でなければ、政治はいつも泥仕合で先に進まず、芸術や科学も新規性やオリジナリティのない面白くないものになってしまう。